search
2021.5.21

幾重もの旅路を紡ぐ、
唐招提寺の物語を辿る( 2 ) Toshodaiji’s Story

唐招提寺から始まる旅へ

遡ること約1200年前。
海を越え、遠く離れた中国の地から、ある一人の僧侶が日本の地に足を踏み入れた。僧の名前は、鑑真和上。
当時、まだまだ発展途上であった日本の仏教を正しい道に導く為に、度重なる苦難、いくつもの波濤を越え、長い旅路の末に辿り着いた日本の地。
その旅路の終着点は、奈良の地に今も静かに佇む、唐招提寺であった。

苦難に満ちた旅路の中で、視力を失い、自らの光を失いながらも、信念の光は決して絶やすことなく歩み続けた鑑真和上。
そして、辿り着いた悲願の地で、自らの理想を描き、創建した唐招提寺。
その長い道のりは、壮大な旅の物語に包まれていた。
たった一人の僧侶が踏み出した一歩は、いつしか大きなうねりとなり、時を越え、訪れる様々な人々を新たな旅路へと導いていく。

千年もの時を越え、今なお人々を惹きつけてやまない、唐招提寺。
そんな唐招提寺に至る、鑑真和上の生涯と交錯する様々な人々の歩みに耳を傾けながら、この場所に流れゆく、様々な旅の物語を辿ってゆきたい。

  • Text / Photo STUDIO HAS

Profile :

唐招提寺

中国・唐出身の僧侶・鑑真和上により、759年に奈良の地に創建された寺院。
鑑真和上は、日本における仏教の戒律の伝授のため、日本からの使者による招聘を受け渡日を決意。しかし、その渡航の旅は困難を極め、渡日を実現するために、5回の渡航に失敗。結果的に約12年の月日を要した。またその旅の途中で、視力を失い、日本の地にたどり着いた時には、完全に失明してしまっていたという。
その後、様々な人々に受戒を施しながら、東大寺で5年過ごした後、私寺として唐招提寺を創建。当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけであった。
8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、金堂が築上。現在の寺の形に至る。

異国情緒と天平文化の息吹を今に感じさせる貴重な寺院である。

Series :

幾重もの旅路を紡ぐ、唐招提寺を辿って

一人の少年の旅の終わり

日本の地にようやくの思いで辿り着いた鑑真は、仏法伝来の本願を果たすため、たゆむことなく歩み続けた。
政治への関わりにも興味を示すことなく、ただただ一途に戒律の伝授に務めたという。そして、五年の歳月が過ぎた時、ようやく長い、長い旅路の終焉の地に辿り着く。

鑑真、この時72歳。
朝廷より一軒の邸宅が施されたのだ。
奈良の西、秋篠川のせせらぎが聞こえる、森に囲まれた静かな一軒の邸宅を。

この地を訪れた時、鑑真はこの地の土を舐め、こう語ったという。
「これは福地である。伽藍を建てると良い。」
そうこの地こそ、長い旅路の終着点である、後の唐招提寺、創建の地であった。

その後、自らもこの地に弟子を連れ、移り住み、晩年の最期の五年間を過ごした。
これまでの波乱に満ちた日々をゆっくりと癒すような、穏やかな日々を過ごしたのであろう。
そして、自らの死期を悟った鑑真は、最期は座禅をし、自身の祖国・唐のある西を向きながら、そのまま息を引きとったという。

763年6月25日、彼の最期を悲しむように、長雨が降りしきる梅雨の時節に、雨に濡れた紫陽花の美しい青が彼の最期を彩ったのであった。
76年に渡る一人の少年の長い旅は、ついに終わりを迎えることになった。
それは、幾重もの波乱を乗り越え、祖国から遥か遠く離れた日本の地への、信念の旅路であった。

だが不思議なことにその少年の旅の物語は、決してそこで途絶えることはなかったのだ。
この場所に宿る一途な想いは、時代を越え、訪れる人々を新たな旅路へと導いていくことになる。

求道へのいざない

鑑真がこの世を去ってから、41年後の5月のとある日。
瑞々しい若葉の香りが穏やかに流れる、初夏の薫風に包まれながら、二人の青年が今まさに日本海を渡り、鑑真の祖国・唐を目指していた。

一人の青年の名は、空海。もう一人の青年の名は、最澄と言った。
そう、後に仏教界の二大開祖として、その名を轟かすことになる二人が、仏法を学ぶために、遣唐使として新たな旅路に踏み出そうとしていたのだ。
鑑真和上との不思議な縁に導かれながら。

鑑真の死後、唐招提寺は、弟子の如法の手によってさらなる発展を遂げる。
空海は、その如法と親しく、自身の受戒も鑑真が建てた東大寺の戒壇院で、如法が師となり行われた。
また密教にも深い見識を備えていた鑑真は、その学びの足跡をいくつか残していたという。
それゆえに、後に唐で密教を伝授される空海に何かしらの影響を与えたのではないかとも語られている。

さらに鑑真は、天台宗にも深い見識を備え、祖国・唐から数々の天台関係の書物を日本に紹介していたという。
後に、最澄はこれらの書物を目にし、天台宗に眼を覚まし、修行を深めることで、遣唐使への道を切り開いたという。
そして、最澄もまた、自身の受戒は、東大寺にて鑑真の弟子である賢璟(けんよう)によって行われたのだった。

なんという不思議な因縁であろうか。
鑑真と普照(ふしょう)・栄叡(ようえい)の二人の遣唐使との出会いが描いた旅路が、新たな歴史を作り上げる大いなる物語の種となったのだ。
空海と最澄、この二人のその後の偉業は、ここで語るまでもないだろう。

幾度もの苦難に見舞われた日本への旅路。
もし、その時に彼らがどこかで、その歩みを止めていたら、日本の歴史は全く違ったものになっていたのかもしれない。

「これは仏のためで、命を惜しむことではない。私が行くだけだ。」

日本への渡航を決めた際に、鑑真が静かに語った言葉。
この少ない言葉の中に、日本の未来が詰まっていたのだ。
その言葉の中に秘められた、たった一人の強い決意。
一人の一途な想いが一つの国の歴史を変えてしまうことがあるのだと、その言葉は、今を生きる私たちに信念を持ち続ける本当の意味を教えてくれるような気がする。

そしてまた、鑑真が紡いだその物語の種は、さらに1200年の時を越え、ある画家の大いなる旅路を描き出すことになる。

大和の美をめぐる旅へ

1971年7月10日。
鑑真没後、1208年と15日後の、強い日差しが照りつける夏の日のことであった。
一人の画家がまた新たな旅路に誘われようとしていた。

画家の名は、東山魁夷(ひがしやまかいい)。
数多くの美しい風景画を描き出した遍歴の画家である。

当時の唐招提寺の長老森本氏からの依頼を受け、唐招提寺の中にある仏堂・御影堂の障壁画を描くことになったのだ。
御影堂は、境内の北側にひっそりと佇む、鑑真和上の坐像が今も静かに鎮座する仏堂。

その日から東山魁夷は、何度も御影堂に足を運び、静かに鑑真の像に向き合いながら、描くべきテーマを探った。鑑真の歩んできた76年の歳月に耳を傾けながら。

そうした日々を繰り返す中で、あるイメージが画家の脳裏に浮かび上がったという。
果てしなく広がる山々。そして、打ち寄せる波と海の景色。
それは、日本の国土の象徴である、山と海が織り成す美しい風景。
その風景を御影堂の中に描くべきではないかと。

それは、鑑真のこれまでの旅路を想い浮かべ、辿り着いたテーマであった。
度重なる苦労の末に、辿り着いた日本の地であったが、失明し、光を失った鑑真は、日本の景色をその目で見ることは生涯一度もなかった。
だからこそ、その瞳の奥に日本の美しい風景を描き出すような想いで、この場所に障壁画を描くことに意味があるのではないかと考えたのだ。

その想いが起点となり、唐招提寺からまた新たな旅路が始まることになる。
大和の美を巡る旅へ。描き出す障壁画のイメージを探るために。
東北から九州まで、様々な海と山々の景色を求めて、東山魁夷は旅を重ねたのであった。

そして、10年もの歳月をかけ、ついに障壁画が完成する。
東山魁夷の集大成とも言われる、その障壁画の制作に要した時間は、不思議なことに、鑑真が来日から最期を迎えるまでの月日と同じ長さであった。

これはあくまで想像にしか過ぎないが、鑑真は、東山魁夷の目を通して、1200年の時を越え、この日本の国土の美しさを眺めていたのではないだろうか。

もちろんそれは想像に過ぎない。
ただ確かな事実は、鑑真が歩んだ旅の軌跡は、決して途絶えることなく、千年の時を越え、また一人の人生の心に火を灯し、新たな物語を生み出したのであった。

幾重もの旅路に想いを馳せて

千古の時を越え、今も往時の姿のまま、静かに時を刻み続ける、唐招提寺。
この地に流れゆく様々な物語に耳を傾けると、それぞれの時代を懸命に生きた様々な旅人の物語が流れていた。

そんなこの場所を表す、ある言葉を紹介したい。
その言葉は、東山魁夷が、唐招提寺の障壁画の制作の際に抱いた想いを、自著『唐招提寺への道』で残した言葉だ。

「時が過ぎ去って行くのでは無く、私達が過ぎ去って行くのである。時は永劫に不変不動であり、私達を含めて、この世の全てのものが変化し流動して行く。永久に変わらぬものは死であり、移ろい変わるものこそ生であるとは、日頃の私の感懐である。」

この言葉が表す通り、まさにこの場所は、永遠の記憶と移ろいゆく時の流れが時代を越え、交錯していたのだった。

1688年、若草の緑が目に鮮やかな春の日に、放浪の俳人・松尾芭蕉は、唐招提寺を訪れ、ひとつの句を残している。

「若葉して 御目の雫 拭はばや」

鑑真和上の波乱に満ちた生涯を想い、
「みずみずしい若葉で、盲目の鑑真上人の目もとに流れる涙をぬぐってさしあげたい。」
と紡いだその句には、芭蕉の鑑真和上へのいたわりの想いが込められている。
放浪を重ね、旅の生涯を送った芭蕉だからこそ、鑑真の苦難に満ちた旅路に深く感じ入るものがあったのだろう。

なぜこの場所は、いつの時代も旅人を惹きつけてやまないのだろうか。
それは、きっとこの場所を作り上げた、鑑真もまた一人の旅人であったからではないだろうか。

国際色豊かな揚州で、世界中から往来する様々な旅人を眺めながら、少年時代を過ごした鑑真。
その心の奥底にはいつも、幼い頃から変わらない旅への憧憬があったようにも感じるのだ。

それは、一途に仏教の道を歩み続けた、偉大な宗教者としてではなく、ひとりの少年が持つ、旅への憧れ。
初々しいまでに純粋に輝く、そんな想いが根底にあるからこそ、その想いは時を越え、様々な人々の心を動かし続けるのではないだろうか。

だが、これもまた想像に過ぎない。
ただひとつ確かなことは、唐招提寺に流れゆく様々な旅の物語は、これからも多くの人々を惹きつけ続け、新たな旅路へと導いていくのだろう。

穏やかな時を紡ぐこの奈良の地で、この場所に流れる、永遠の旅の記憶に誘われながら。(完)

Series :

幾重もの旅路を紡ぐ、唐招提寺を辿って
  • Text / Photo STUDIO HAS

Reference :

  • 鑑真
    著者:
    安藤更生
    出版:
    吉川弘文館
  • 唐招提寺への道
    著者:
    東山魁夷
    出版:
    新潮社
  • 天平の甍
    著者:
    井上靖
    出版:
    新潮社
  • Text / Photo
    STUDIO HAS

    STUDIO HAS(スタジオ・ハス)は、京都を拠点に編集とデザインを通して、暮らしの中にある美しい物語を紡いでいくクリエイティブスタジオ。
    美しい物語と人を繋いでいくことを指針とし、HAS Magazine(ハス・マガジン)の運営と様々なデザインワークを手掛けている。

Related