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2021.6.26

光を描いた日本画家・菱田春草
の物語を辿る ( 1 ) Shunso's Story

日本画家への歩みと模索

遡ること約120年ほど前。
幾多もの動乱を経て、江戸から明治へと時代が移り変わってゆく中で、日本は、近代化を目指し、西欧の文化を積極的に吸収しながら、あらゆるものが大きく変革し始めていた。
そして、そんな時代に呼応するように、伝統的な日本画においても、新たな変革の旗手となる一人の青年が現れた。

その青年の名は、菱田春草。
後に近代日本画の革命児とも称される彼は、それまでの伝統的な技法を打ち破り、新たな日本画の表現を打ち立てた。
しかし、その新しさゆえに数多くの批判を受け、36年の短い生涯の多くを不遇の中で過ごした。

春草が描いた、美しい色彩と繊細な光に彩られた様々な作品。
そんな作品の背景には、不遇の中でも自らの意思を貫き通し、ひたむきに自らの表現を深め続けた一人の画家の物語が流れていた。
彼が描いた様々な作品を辿りながら、彼の紡いだ人生の物語を辿ってゆきたい。

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Profile :

菱田春草

1874 年、長野県飯田市生まれの日本画家。
東京美術学校にて絵を学び、卒業後、盟友・横山大観と共に新しい日本画の表現を模索。無線描法という新たな表現を生み出すものの、新しさゆえに世間から大きな批判を受け、長い不遇の時期を過ごす。その後、国外での評価を経て、日本国内においても高い評価を得るが、その矢先で病に倒れ、帰らぬ人となる。
1911年9月16日、36年の生涯であった。後にその功績を讃えられ、近代日本画の革命児とも称される夭折の天才画家である。

Series :

光を描いた日本画家・菱田春草の物語を辿る
釣帰 / 1901年

幼少期から画家への道

意外な幼少期

明治7年(1874年)9月21日、「信州の小京都」とも言われ、山紫水明の豊かな自然に包まれ、歴史と伝統に培われた町、長野県飯田町に菱田春草は生まれた。
父・菱田鉛治(えんじ)の第4子として、三男治(みおじ)と名付けられた春草は、銀行に勤める父親の元、安定した家庭生活を送っていた。

後に日本画壇を牽引する春草の子供時代は、さぞ絵に没頭した日々を過ごしていたと思われるかもしれない。
しかし、水彩画を好んで描いていたという話は残されているが、意外にも幼少期の芸術的な資質については、あまり語られていない。
むしろ芸術より学業に際立った能力を見せていた。

秋景 / 1899年

事実、中等科を卒業する際には、優秀な成績を評価され、長野県からより一層の学業への専念を期待され、儒学の書籍である「論語」の注釈書を授与されるほどであった。

また進学した高等科で図面と数学の教諭を務めた、洋画家の中村不折(ふせつ)は、当時を振り返り、こう語っている。
中村不折は、後に夏目漱石の『吾輩は猫である』の挿絵画家として名を馳せる洋画家である。

「この学校で僕の教えた者で有名になった一人に菱田春草がある。もとから質は良かったが理屈っぽい人間で、吾々を困らせることばかり言っていた。絵がうまいので絵をやれと僕は言っていた事があったが、法律を勉強すると言っていた。」
(菱田春草 / 著者 : 近藤敬次郎より)

この言葉が春草の意外にも思える子供時代をよく表している。
しかし、この言葉には続きがある。

「後には絵を習いに東京に出たいと言い出した。結局僕が一足先に上京し、僕は西洋画をやるし、君は君で好きな方へ行くがよいと言うので、菱田は美術学校へ入り、橋本雅邦氏についた。」
(菱田春草 / 著者 : 近藤啓太郎より)

中村不折が語る通り、春草は最終的に画家を志すことになる。
だが、それは自らの意志というよりも、運命に導かれるようにして、その一歩を踏み出すことになるのであった。
もちろん、その一歩が春草自身の運命だけでなく、いつか日本画壇の未来を大きく変えてゆくことになるとは、知るはずもなく。

松に月 / 1906年

託された夢

明治21年(1888年)3月、春草は高等小学校を卒業すると、地元の私塾に通い英語を学び始める。
そして、その傍らで好きな水彩画を描いていたという。
そんな日々を過ごす中で、ある一つの出来事が春草の運命を大きく変えてゆく。

春草の兄・為吉は、幼い頃から絵が好きで画家志望だった。
しかし、家庭の事情から夢を諦め、既に上京し、物理学校に通っていた。
その兄から東京に新しい美術学校が開校することを教えられ、その学校への受験を勧められたのだ。

風 / 1906年

その学校とは、岡倉天心とアーネスト・フェノロサが中心となり、創設した東京美術学校(現・東京藝術大学)。
西洋画の技術を取り入れながら、東洋美術を深く探究し、新しい日本画の表現を目指す、当時としては最先端の学校であった。

画家を志すほどに芸術に対し理解があった兄には、春草の中に、輝かしい才能の原石を感じていたのかもしれない。
もし、兄に芸術への理解がなければ、そして、画家の夢を諦めていなければ、春草は自ら画家の道を選択することはなかったのかもしれないのだ。
運命とは、いつも不思議なものである。

そして、そうした運命に導かれるようにして、春草は、東京美術学校への入学を目指し、上京を決意したのだった。
明治22年(1889年)この時、春草15歳、夏の暑さがおさまりつつある9月のことであった。

春丘 / 1906年

秘められた意志

上京を決意した春草であったが、現在のように交通の便が整っていなかった当時、上京することは決して容易ではなかった。

まず鉄道の走っている駅まで歩かねばならない。
その道のりは、まず地元の飯田から上州の境(現在の群馬県)まで約120kmの道のりを歩くことから始まる。
その先で碓氷峠(うすいとうげ)を越えて、高崎に至り、ようやくそこで東京・上野行の汽車に乗車出来たのだ。

途中わずかに人力車も走っていたそうだが、たちの悪い車夫に出会い、法外な運賃を強要される恐れもあり、そう易々と利用することも出来ず、ほとんどの道を歩かねばならなかった。

それも決して平坦な道のりではない。
西に穂高岳、東に八ヶ岳を望む、非常に険しい山々に囲まれた長い山道を歩いた。
一歩間違えれば遭難、雨が降れば歩くことさえままならない、非常に困難な道のりだ。
そうした道のりをわずか15歳の少年が荷物を背負い、毎日40kmの山道を歩いたのだった。

その胸中には、郷里を去る不安や寂しさもあったであろう。
その先にも決して約束された未来が用意されている訳ではない。
美術を生業にする難しさは、今も昔も変わらないだろう。
だが、その先にあるやもしれない、かすかな光を目指して、春草は歩いたのだ。

春草は冷静、理論的な人物として語られることが多い。
しかし、まだ何者でもなかった一人の少年が、自らの将来を信じ、歩み続けたその姿の中に、春草の内に秘める並々ならぬ強い情熱と意志を感じ取ることが出来る気がするのだ。

月夜静波 / 1907年

画家としての一歩

東京美術学校への入学

上京後、春草は、東京美術学校への入学を目指して、当時高名な画家であった結城正明が主宰する正明塾に通い始めた。
春草の進歩はめざましく、ほどなく月謝は免除され、正明の助手となった。

そして、上京後の努力が実り、明治23年(1890年)9月には、東京美術学校の2期生として日本画科に合格することになる。
この時、春草16歳、上京1年後のことであった。

1期生には、後に近代日本画壇の巨匠とも称される当時22歳の横山大観をはじめ、日本全国から様々な才能を持った若者が集まっていた。
校長である岡倉天心は、この時なんと28歳。
生き生きとした新しさがみなぎる校風に引き寄せられるように、若い才能が集い始めていたのだ。

そんな若者たちに想いを託すように、岡倉天心は、芸術の道を歩む上での心構えを彼らに語っている。

「芸術の道を志す上で、君たちに覚えておいて欲しいことがある。それは、むやみに過去の偉人の作品を模倣してはならないということだ。模倣した作品は必ず亡んでしまう。これは歴史が証明する所だ。系統を守りながら、従来のものを研究した上で、一歩先に進んでいくことを努めて欲しい。西洋の芸術も参考にするべきである。だが、それに追従するのではなく、あくまで自らが主となり、進歩して欲しい。東洋の美術を背負っていく、その名に恥じない強い矜持を持って歩んで欲しい。」
(菱田春草 / 著者 : 近藤啓太郎より意訳)

日本画の近代化を目指す、天心の情熱をひしひしと感じる言葉である。
そうした強い想いに牽引されながら、様々な人々との交流を重ね、春草は、自らの才能を磨き上げていったのであった。

雨後 / 1907年

才能と地道な努力

そんな素晴らしい環境の中で、画家として歩み始めた春草は、学年が上がるにつれて、自らの才能を遺憾なく発揮していく。
だがそれは決して、持って生まれた才能だけでなく、地道な修練の積み重ねの成果であった。
特に春草が熱心に取り組んだのが、日本画科教授であった橋本雅邦の教えによる「古画の模写」だった。橋本雅邦は、明治時代に活躍した狩野派の日本画家。

この古画の模写は、春草の画力の向上に大きく寄与したという。
後年、春草と共に様々な古画の模写を行った大観は、次のように語っている。

「橋本先生の言われた古画の模写というのは、いま考えても、とてもよろしうございます。古画を見て、ただそれを写すとその精神を捉えることができない。
だから古画を毎日掛けてはしまい、掛けてはしまい、一週間くらい何もせずにそれを見ていて、古画がすっかり脳裏に入ってしまってから、これを初めて写すというのです。〔中略〕春草君とも話し合いまして、在学当時いわれたやり方で、『初めから写すとだめだぞ、魂の抜けた絵が出来てしまうから、三、四日遊ぶつもりで絵とにらめっこしよう』というようなわけで、お寺に行っていきなり写さなかったものです。」
(菱田春草 / 著者 : 近藤啓太郎より)

曙色 / 1907年

画家パブロ・ピカソが残した「優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む。」という言葉があるが、まさに彼らが行った模写は、端なる模倣を越え、その絵の真髄を掴み、己の技術として昇華する修練であったのだろう。

なんとその修練の結果として、目にする自然の景色をその場で写生することなく、頭の中に写し、絵に再現出来るという特殊な記憶能力を養うことが出来たという。
その後、春草は、卒業制作「寡婦と孤児」を発表し、岡倉天心の激賞を受け、東京美術学校を主席で卒業することになる。

春草は、持って生まれた才能や素晴らしい出会いに恵まれながらも、その境遇に甘えることなく、自らの強い意志のもと、地道な努力を重ねることで自らの才能を開花させたのであった。

そして、美術学校で様々な技術や表現を身に付けた春草は、卒業後、盟友・横山大観と共に、新たな日本画の境地を切り開く、大きな一歩を踏み出すことになる。

秋野 / 1899年

新たな表現への道

光と空気を描く

「墨による輪郭線を使わずに、光や空気を表現できないか。」
岡倉天心は、東京美術学校を卒業した春草と大観に、そう問いかけたという。
その言葉を受け、二人が試行錯誤しながら生み出したのが「無線描法」という表現手法であった。

この「無線」という言葉が表す通り、この手法の大きな特徴は、伝統的に重んじられて来た、墨の筆線を排除すること。
あえて筆線により表現を行わず、刷毛で線をぼかす、絵具が濡れているうちに布で拭き取る、絵具と薄墨を重ねてぼかしていくなど、従来の日本画では邪道とされていた方法を積極的に用いたのだ。
この表現手法によって、これまでの日本画では表現が難しかった、「光が拡散していく様子」や「湿り気を帯びた空気感」を日本画に取り入れることが出来たのだ。

だがそれは同時に、世間からそれまで培って来た伝統的な筆線を軽んじているとも捉えられ、日本画への冒涜であるとまで批判されたという。
伝統的な筆線は、一発勝負であり、その筆さばきには集中力と熟練の技が必要であったことから、そこには精神性も技術もないと思われ、批判の対象になったのだ。

後に「無線描法」は、「朦朧体」や「没線描法」として揶揄されることになるのだが、その背景には、新しい表現を切り開いていくために、あえて伝統的な技法を一切無視した、新たな表現ゆえの拒否反応や無理解があったのだ。

そんな当時の時代背景から、彼らが発表した作品はまったくと言っていいほど売れなかったという。
それゆえに、春草は、卒業後に結婚した妻との間で子をもうけながらの厳しい貧乏暮らしが続いたのだった。

秋渓 / 1900年

覚悟と信念

この時の不遇の時期を振り返って横山大観は、こう回想している。

「私や菱田君が岡倉先生の考へに従って絵画制作の手法上に一つの新しい変化を求め、空刷毛を使用して空気、光線などの表現に一つの新しい試みを敢えてした事が当時の鑑賞会に容れられず、いわゆる朦朧派の罵倒を受けるに至った。
いわゆる朦朧派がいいと考えたのではない。ただ古画の研究から一種の自覚を促され、今まで試みられなかったものを表現しようと考えたに過ぎない。
この真面目な研究の道程としていかなる罵倒も我慢しようと努めた。
一途に自己の信ずる道に邁進したままでである。」
(横山大観自叙伝より)

この言葉から、世間の評価との大きなずれの中で葛藤しながらも、決して屈することのない、彼らの強い意志を感じ取ることが出来る。

そして、もう一つ重要な事実は、ただただ無下に伝統的な技法を排したわけではないということだ。
古画の模写を徹底的に行い、伝統的な精神や技法を体得していた彼らは、深い敬意を持って、伝統的な表現に接していたことは容易に想像出来る。
むしろそうした伝統への深い理解があったからこそ、彼らは新しい表現を見出すことが出来たとも言えるのではないだろうか。

こうした不遇は、いつの時代も変わらず、これまでにない新たな挑戦を始める全ての人に待ち受ける通過儀礼なのかもしれない。
そんな光の見えない日々の中で、春草と大観は、決して折れることなく、自分たちの信念を持って歩み続けたのであった。(後編へ続く)

Series :

光を描いた日本画家・菱田春草の物語を辿る
  • text STUDIO HAS

Reference :

  • 菱田春草
    著者:
    近藤 啓太郎
    出版:
    講談社
  • 不熟の天才画家
    監修:
    鶴見香織
    出版:
    平凡社
  • 菱田春草 生涯と作品
    著者:
    鶴見香織
    監修:
    尾崎正明
    出版:
    東京美術
Category :
  • text
    STUDIO HAS

    STUDIO HAS(スタジオ・ハス)は、京都を拠点に、編集とデザインを通して、 暮らしの中にある物語を紡いでいくクリエイティブスタジオです。
    美しい物語と人を繋いでいくことを指針とし、HAS Magazine(ハス・マガジン)の運営の他、様々なデザインワークを手掛けている。

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