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2022.8.26

光を描いた日本画家・菱田春草の物語 : 後編
異国への旅と探求の途上で Shunso's Story

光を描いた日本画家・菱田春草の
物語を辿って

    

遡ること約120年前。
幾多の動乱を経て、江戸から明治へと時代が移り変わってゆく中で、日本は、近代化を目指し、西欧の文化を積極的に吸収しながら、あらゆるものが大きく変革し始めていた。
そんな時代に呼応するように、伝統的な日本画の世界でも、新たな変革の旗手となる一人の青年が現れた。

その青年の名は、菱田春草。
後に近代日本画の革命児とも称される彼は、それまでの伝統を打ち破り、新たな日本画の表現を打ち立てた。
しかし、新しさゆえに数多くの批判を受け、36年の短い生涯の多くを不遇の中で過ごした。

春草が描いた、美しい色彩と繊細な光に彩られた様々な作品。
そんな作品の背景には、不遇の中で自らの意思を貫き、ひたむきに自身の表現を深め続けた、一人の画家の物語が流れていた。
彼が描いた様々な作品を辿りながら、その人生の物語を辿ってゆきたい。

Profile :

菱田春草

1874 年、長野県飯田市生まれの日本画家。
東京美術学校にて絵を学び、卒業後、盟友・横山大観と共に新しい日本画の表現を模索。無線描法という新たな表現を生み出すものの、新しさゆえに世間から大きな批判を受け、長い不遇の時期を過ごす。その後、国外での評価を経て、日本国内においても高い評価を得るが、その矢先で病に倒れ帰らぬ人となる。
享年1911年9月16日。36年の生涯であった。後にその功績を讃えられ、近代日本画の革命児とも称される夭折の天才画家である。

春色 / 1905年

異国の地への旅

インド、そしてアメリカへ

不遇の日々を過ごす、春草と大観に一つの転機となる話が舞い込んで来る。
それは、インドへの渡航である。
岡倉天心がインドへ旅行した際に訪れた、ティペラ王国(イギリスが植民地統治していた時代のインドにあった小さな王国)の国王から「宮殿の装飾を日本の美術家に頼みたい。」と言われたことがきっかけになり、大観と共にインドを訪れることになったのだ。
明治36年(1903年)1月、春草28歳の時である。

そして、訪れたインドでの現地の画家との交流の中で、彼らの絵は、大いに受け入れられたという。
当時インドは、イギリスの植民地であり、写実的な西洋画が支配的であった。

それゆえに深い東洋的精神を備えた彼らの表現は、西洋近代を脱し、自国らしさを模索するインドの画家たちへの重要な指針となったのだ。
国内での不評に苦しむ彼らにとって、異国の地で、共鳴する人々に出会えたことは、大きな自信になったことだろう。

夕の森 / 1904年

さらに帰国後の翌年、またも天心からの誘いによって、今度はアメリカ行きが実現する。欧米への渡航を夢見ていた二人にとって、またとない機会ではあったが、一つ大きな不安があった。

それは、渡航先での収入のあては、天心が請負ったボストン博物館の日本美術品修理の仕事のみで、その仕事が終われば生計のあてがなかったこと。
アメリカで展覧会を開催する予定であったが、当時の国内の状況を考えると、展覧会での売れ行きにも確信を持つことが出来ない。

だがしかし、そうした不安を抱えながらも、結果的に二人はアメリカ行きを決める。
大観は、ひとり心の中で「もし万が一、絵が売れなければ明日にでも皿洗いでもして暮らしていく。」と覚悟していたという。

そんな希望と不安が入り混じった複雑な想いを抱えながら、彼らはアメリカに向かうことになる。

帰路 / 1904年

一筆に自らを託す

明治37年(1904年)2月10日、春草ら一行を乗せた船は、横浜港から一路アメリカを目指し、出航した。
なんと出航の日は、日露戦争(1904年2月8日〜1905年9月5日)が開戦した翌々日。
万が一、太平洋上でロシアの軍艦に出会えば撃沈されてしまう恐れすらある、緊張感に満ちた船出であった。

そんな不安に苛まれながらも、無事に太平洋を横断し、一行はシアトルを経由し、ニューヨークに到着する。
現地に到着した春草と大観は、展覧会の開催を目指し、宿泊しているホテルの床に新聞紙を敷きつめ、ただひたすらに作品を描き始めたという。

紫陽花 / 1902年

自国での不遇にあえぎながら、今まさに戦火に巻き込まれようとしている日本に家族を残し、辿り着いた遥か異国の地。
確かな生計のあてもなく、明日をも知れぬ状況の中、ただただ己の描く絵のみを頼りに、彼らは作品制作を続けた。

まさに背水の陣とも言うべき状況であり、その一筆、一筆に魂を込め描いていたに違いない。
そして、様々な不安を乗り越え、ついに異国の地で、二人の展覧会が開催されることになる。

躑躅図 / 1905年

反響と確信

だが二人の予想は良い意味で、大きく裏切られたのであった。
蓋を開けてみると、驚くことに想像を遥かに越える高い評価を受け、なんと高い作品から次々に売れてしまったというのだ。

展覧会の売上金は、合計3400円。
明治時代の1円は現代の2万円もの価値があったと言われているので、その金額は法外とも言えるものだった。
結果的には、米国滞在中のわずか1年の間に、合計5回の展覧会を開催することになった。さらにその後、欧州に渡りロンドンとパリのそれぞれで1回ずつの展覧会を開催し、いずれも高い評価を受けた。

欧米の人々は、彼らの作品を西洋の技法と東洋独自の情緒的な表現の見事な融合だと評価した。
またその表現は、米国人画家「ホイッスラー」の作品や光の美しさを色彩を重ね表現する「印象派」の作品と共鳴するものとしても、受け入れられたという。

帰漁 / 1904年

この欧米への旅行は、春草と大観に多くのものをもたらした。
初めて作品の売上につながる評価を受けたことが、まず二人にとって大きな自信になった。
またそれだけでなく、日本で研究を重ねて来た表現が、今まさに西洋で主流となりつつある「印象派」の表現と重なり合っているという事実が、自らが歩んで来た道への確信をもたらしたのだ。

欧米から帰国した春草と大観は、連盟で発表した論文「絵画について」の一文でこう語っている。

「欧米の遊学を通して、目にしたものの多くは、日本に居た時に私たちが研究していた絵画表現と大差がなかった。むしろ、その事実によって、私たちの表現に対する覚悟を確かめたに過ぎない。」
(別冊太陽/不熟の天才画家・菱田春草より意訳)

この短い言葉の中に、春草と大観の中に芽生えた、確かな自信を感じ取ることが出来る。
欧米で得た経験を通して、より一層深く自らの歩む道を確信した春草は、朦朧体における色彩表現をより深めていくことを決意する。

この時、春草30歳。明治37年(1904年)12月、年の瀬が迫る冬の時期であった。

海月 / 1907年

さらなる高みを目指して

五浦での制作

帰国後、春草と大観は、東京から茨城へ移住する。
岡倉天心からの「茨城県五浦に新しい美術院を作り、ここを『日本のバルビゾン』のような場所にし、大いに絵画の研究をしてはどうか。」という誘いに応じての移住であった。

バルビゾンとは、19世紀のフランスにおいて、ミレーを代表とする風景画家の一派がフランスのとある村に集い、自然主義的な風景画を描いた、その村の名前だ。

しかし、欧米での評価とは裏腹に日本での評価は、未だ厳しく、この移住も「都落ち」であると批判されたという。
東京の画商が訪れた際も、共に移住した他の画家の家には立ち寄ったが、春草と大観には、素知らぬ顔で帰って行ったのだった。

そのため移住した五浦においても、相変わらずの貧乏生活が続くことになる。
この時の生活のことを大観は次のように語っている。

晩秋 / 1908年

「こんなわけで、私どもの生活は極度に貧しく、その日その日のものにも事欠く始末で、あの魚の安い五浦において、その魚すら買うことが出来ませんでした。二人は互いに海にでて魚を釣っては飯の菜をあさったものでした。」(大観画壇より)

大観は、「話は大袈裟じゃないと面白くない」と冗談めかしく話していたそうで、話を誇大に表現するきらいがあったそうだが、相当に貧しかったのは確かであろう。

だが二人の技術を持ってすれば、ある程度、芸術的な良心を満たしながら大衆好みの絵を描くことは難しくなかったはずだ。
しかし、春草も大観も一切の妥協をすることなく、あくまで朦朧体の絵を描き続け、日本画の近代化を目指したのだ。

こうした新たな表現に挑み続ける二人の姿は、五浦を訪れた若き画家・安田靫彦(やすだ ゆきひこ)に強い印象を残している。
靫彦は、天心に才能を認められ、展覧会に出品する為の絵を制作するために、五浦を訪れたのであるが、春草や大観の制作態度のきびしさに接して思わず立ち竦んだという。

その姿は、芸術家というより、さながら殉教者を思わせるような、孤高な姿勢を感じさせたのだ。

海辺月夜 / 1907年

苦しさゆえの実り

五浦での制作の日々を続けていた春草に、ある悲劇が訪れることになる。
なんとある日を境に突然、視力の異常を覚えるようになったのだ。
診断の結果、慢性腎不全による網膜症ということが判明。
画家の生命線とも言える視力に関わる病であった。

この時、春草34歳。
志半ばにして、飲酒や運動はもとより、一切の創作活動も禁じられ、療養に専念する生活を強いられることになったのだ。
そして、治療のため、明治41年(1908年)に東京・代々木に転居。
その後、療養の甲斐もあり、半年後には体調も少しづつ快復して、執筆も許されるようになる。

しかし、この経験は、春草にとって非常に苦しい経験ではあったが、ある一つの大きな実りをもたらすことにもなった。
それは、この経験が自身の代表作「落葉」を生むきっかけになったことだった。

落葉 / 1909年

療養中の春草は、創作東京・代々木の自宅近くの雑木林をよく散策していたという。そこで目にした光景から、生み出されたのが「落葉」であった。

この絵の中には、生と死の狭間を移ろう、どこか儚げで、静かな美しさが流れているようにも感じられる。病に向き合う中で、限りある命の儚さと散りゆく落葉に、自らの運命を重ね合わせたのかもしれない。

苦しい経験は、時に人を立ち止まらせ、自らの内面と深く向き合うきっかけとなり、新たな境地を見出す機縁となるものである。
春草にとってもまたその経験は、大きな意味を持つものだったのだろう。

そして、翌年の明治42年(1909)年、第三回文展(現・日展)に「落葉」を出展。
この作品は、賛否両論を呼んだが最終的には最高賞を獲得し、天心も手放しの賛辞を贈るほどであったという。
これを契機に、次々に高い評価を受けた春草は、それまでの不遇を覆すように、多くの依頼が殺到し、安定した生活を送ることが出来るようになった。

だが、そうした評価に決して安住することなく、新たな表現を追い求め、明治44年(1911年)2月には、「早春」を発表する。
長く暗いトンネルを抜けた春草は、近代日本画の新たな旗手として、今まさに歩みだそうとしていたのだった。

海辺の松 / 1908年

不熟の芸術家として

だがしかし、それはまるで束の間の夢のように、突然の終わりを迎えることになる。
新作の制作途中から病状が再び悪化し、視力の異常を感じるようになったのだ。
危惧していた腎不全が再発したのだ。

再び闘病を続けるも、その甲斐なく、なんとその年の夏には失明状態に陥ってしまう。
視力を失った当初は、さすがの冷静沈着な春草も取り乱していたそうだが、徐々にその事実を受け入れ、少しづつ平穏な日々を取り戻すようになったという。

明治44年(1911年)の夏に、故郷・飯田にいる家族に向けた手紙では、次のように綴っている。

「残暑の候、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。お子様たちの病気も全快したとのこと、喜ばしいことと思います。静養すれば眼のほうが多少見えるようになると医者が話しておりました。決して心配なさらないで下さい。全快するにしても長い期間がかかることで、忍耐が必要です。苦しいですが今は私の仕事は中断し、療養していますので、ご安心ください。〔以下省略〕」
(別冊太陽/不熟の天才画家・菱田春草より)

自らの病状を冷静に捉えながらも、あくまで前向きに、そして何より故郷の家族のことを想った、春草の優しい心遣いがこの文章から伝わってくる。
苦しみの極地にいながらも他者を想い遣り、そして自らも決して希望を捨ててはいなかったのだ。

雪の山 / 1909年

だがその願いは、成就することはなかった。
故郷への手紙を送った、わずか半月後に病状が急変。
同年9月16日、春草は永遠の眠りにつくことになったのだ。

37歳の誕生日である、9月21日を目前にしての、突然の別れであった。
生まれ育った故郷・飯田から画家になることを目指し、無名の少年が挑み続けた一つの夢がここで終わりを迎えたのだった。

そのあまりに早過ぎる他界に、日本画界は深い悲しみに包まれたという。
そして、訃報を受けた3日後、9月19日付の新聞にて、師である岡倉天心は春草の死に接し、次のような追悼の想いを新聞に発表した。

「そもそもいつの時代にもいわゆる美術家と言われる人は沢山いるが、本物の感覚を持って大成する人は非常に少ない。ただその時代の中で、わずか七、八人の人がいてその他の人々を率いているのが事実である。菱田君は、各時代にほとんどいない、まさに美術界を牽引していく素養を備えた人であった。こうした素養を備えている人は、若い不熟の時からわかるもので、菱田君の場合も美術学校の2年生の時からこの素養を感じさせた。不熟のうちからと言ったが、菱田君はある意味において今日においても未だに不熟であったかも知れぬ。あるいは終生不熟なのだろう。この常に不熟であることこそが有望なのだ。」
(菱田春草・著者/近藤敬次郎より意訳)

春野 / 1901年

まさに天心が語る通り、死の間際まで、常に現状に安住することなく新たな表現を模索し続けた春草は、永遠の不熟の人であったのであろう。
春草の臨終に際して、春草の長男・春夫は次のような回想を残している。

「天心先生は所用があって間に合わず、夜になって奥様と一緒にお見えになりました。仏前に座ると腕組みをされて、『奥さん、残念でしたな』と一言おっしゃったきりで、後は何も言われない。顔を見ると、眼から涙がボロボロこぼれていました。」

春草の死に際し、気丈な文章を発表した天心であったが、その悲しみは決して言葉では言い尽くすことが出来ない、計り知れないものがあったのだろう。

寡黙で、理知的な春草の周りには、不思議なほどに真逆とも言える性格を持った岡倉天心や横山大観のような豪快で、情熱的な人物が集まっていた。
実際に、春草は多くを語ることなく、残されている言葉も、春草自身のものではなく、周囲にいた人々が語っている言葉が多い。

しかし、それは決して春草自身が語るべきことがなかったわけではないのだろう。
むしろ「言葉ではなく、絵に全てを託す。」そんな強い思いで、筆をとっていたのではないだろうか。

だからこそ、春草の描く絵は、国境を越え、世界の人々の心をも捉えた。
そして最期には、これまでの日本画の伝統を打ち破った新たな表現として、日本においても認められたのだと。

春草は、きっと絵を通して、誰よりも雄弁に語っていたのだろう。
美しく、繊細な色彩と凛とした静けさが漂う春草の作品。

彼の残した言葉と果たせなかった想いは、彼の描いた作品の中に、きっと今も静かに生き続けていることだろう。
(夭折の日本画家・菱田春草の物語・完)

Reference :

  • 「菱田春草」
    著者:
    近藤 啓太郎
    出版:
    講談社
  • 「不熟の天才画家」
    監修:
    鶴見香織
    出版:
    平凡社
  • 「菱田春草 生涯と作品」
    著者:
    鶴見香織
    監修:
    尾崎正明
    出版:
    東京美術
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