光を描いた日本画家
菱田春草
Shunso Hishida

信念が描いた美しく繊細な光
1874年から1911年に活躍した、長野県飯田出身の日本画家・菱田春草。
朦朧体という独自の表現技法を生み出し、当時の日本画の世界に新風を巻き起こした画家として知られている。
春草は、明治7年(1874年)9月21日、「信州の小京都」とも言われ、山紫水明の豊かな自然に包まれ、歴史と伝統に培われた町、長野県飯田市に生まれる。
後に日本画壇に大きな影響を与えることになるのだが、意外にも幼少期の芸術的な資質については、あまり語られていない。
むしろ芸術より学業に際立った能力を見せていた。
しかし、元々画家を志望していた兄に、新しく開校する東京美術学校への入学を勧められたことがきっかけとなり、本格的に画家への道を歩み始める。
そして、入学した美術学校で、春草の画家人生にとって、運命の出会いとなる、盟友・横山大観と校長であり師となる、岡倉天心に出会うことになる。
そして、美術学校を卒業後、岡倉天心から「墨による輪郭線を使わずに、光や空気を表現できないか。」という問いをきっかけとして、これまでにない新たな表現方法を模索してゆく。
その模索の中で、筆線により表現を行わず、刷毛で線をぼかすという従来の日本画では邪道とされていた手法を用いた「無線描法」という表現手法に辿り着く。
しかし、伝統に背いたその表現は、「朦朧体」と揶揄され、大きな批判を受けることになる。
事実その作風は、世間から受け入れられることなく、長きに渡る不遇の時代を過ごすことになってしまう。
だが、そうした憂き目にあいながらも、決して自らの信念を曲げることなく歩み続け、その最中で画家の命でもある、眼の病を患いながらもその信念を貫き通した。
そして、様々な苦難を乗り越え「落葉」という傑作を生み出し、国内において大々的な評価を受け、ついに不遇を脱し、日本画壇を牽引する存在となる。
しかし、その僅か2年後に、病気が再発、秋が近づく残暑のとある日に、永遠の眠りにつくことになる。
36年を駆け抜けるように生きた人生であった。
多くの批判を受けながらも、自らの意志を貫き通した画家・菱田春草。
美しい色彩の中に流れる、どこか凛とした静けさには、きっと春草の中にある静かだが決して折れることのない、強い意志が表れているのではないだろうか。
そんな春草の絵は、時を越え、今なお私たちに、静かさの中にある強さと美しさを教えてくれるような気がする。
Reference :
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「菱田春草」
- 著者:
- 近藤 啓太郎
- 出版:
- 講談社
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「不熟の天才画家」
- 監修:
- 鶴見香織
- 出版:
- 平凡社
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「菱田春草 生涯と作品」
- 著者:
- 鶴見香織
- 監修:
- 尾崎正明
- 出版:
- 東京美術
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