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2021.4.28
[ 前編 ]

唐招提寺と幾重もの旅路

Toshodaiji’s
Story
Toshodaiji’s Story
前編
Toshodaiji’s
Story

遡ること約1200年前。
海を越え、遠く離れた中国の地から、ある一人の僧侶が日本の地に足を踏み入れた。僧の名前は、鑑真和上。
当時、まだまだ発展途上であった日本の仏教を正しい道に導く為に、度重なる苦難、いくつもの波濤を越え、長い旅路の末に辿り着いた日本の地。
その旅路の終着点は、奈良の地に今も静かに佇む、唐招提寺であった。

苦難に満ちた旅路の中で、視力を失い、自らの光を失いながらも、信念の光は決して絶やすことなく歩み続けた鑑真和上。
そして、辿り着いた悲願の地で、自らの理想を描き、創建した唐招提寺。
その長い道のりは、壮大な旅の物語に包まれていた。
たった一人の僧侶が踏み出した一歩は、いつしか大きなうねりとなり、時を越え、訪れる様々な人々を新たな旅路へと導いていく。

千年もの時を越え、今なお人々を惹きつけてやまない、唐招提寺。
そんな唐招提寺に至る、鑑真和上の生涯と交錯する様々な人々の歩みに耳を傾けながら、この場所に流れゆく、様々な旅の物語を辿ってゆきたい。

唐招提寺
Toshodaij Temple

中国・唐出身の僧侶・鑑真和上により、759年に奈良の地に創建された寺院。
鑑真和上は、日本における仏教の戒律の伝授のため、日本からの使者による招聘を受け渡日を決意。しかし、その渡航の旅は困難を極め、渡日を実現するために、5回の渡航に失敗。結果的に約12年の月日を要した。またその旅の途中で、視力を失い、日本の地にたどり着いた時には、完全に失明してしまっていたという。
その後、様々な人々に受戒を施しながら、東大寺で5年過ごした後、私寺として唐招提寺を創建。当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけであった。
8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、金堂が築上。現在の寺の形に至る。
異国情緒と天平文化の息吹を今に感じさせる貴重な寺院である。

前編
唐招提寺に至る旅へ
to
Toshodaiji
to
Toshodaiji

旅のはじまり

一人の少年の物語

この旅の物語は、たった一人の少年から始まる。
名前は、淳于(じゅんう)と言った。
淳于は、さかのぼること約1300年前、中国の揚州のとある港町に生まれた。

熱心な仏教信者である父の元に生まれ、生家には幼い頃より仏教的で穏やかな空気が漂っていた。
一方で、生まれ育ったその港町は、様々な人々が往来する、当時中国の南方では、第一流の地方都市であったという。
運河を利用した交通の要衝として繁栄し、訪れる人種も様々であった。
はるかシルクロードを越え、インドやイランといった様々な国々の人々だけでなく、日本より海を渡り、中国を訪れる日本人も往来する、国際的な都市でもあったのだ。

淳于は、そうした環境に囲まれて育った。
その環境で一体彼は、何を感じ、何を思ったのだろうか?
想像することしか出来ないが、自然と国際的な感覚と仏教への理解を、幼い頃より深めていたに違いない。
もちろん、いつか遥か遠い地である日本に、鑑真という名の僧侶として、その身を埋めることになるとは想像するはずもなく。

運命の出会い

淳于、14歳の時、運命の出会いを果たすことになる。
この大いなる旅のはじめの一歩となる出会いを。
ある日、仏教信者であった父に連れられて、とある寺院に参詣した少年は、寺院のある仏像に出会う。
その仏像に強い感銘を受けた少年は、その瞬間に強い直感に導かれるように、一つの決意を抱く。出家して僧になりたいという決意を。
なんとその場で父にその想いを伝え、その道に進むことを願ったというのだ。

まだまだあどけなさが残る年齢である。
とても普通の少年に出来ることではない。
この決意の中に、ただ者ではない何か。何かいずれ大きなことを成し遂げるであろう偉人の片鱗を感じるのは私だけであろうか。

そうして少年は、僧としての長い、長い旅路を歩み始めることになる。
そしてこの時、唐招提寺に至る旅のはじまりとなる、鑑真としての物語がついに始まりを迎えたのであった。

望郷と異国の地へ

その後、鑑真は、仏教者としての学びを深め、気が付けば、弟子はなんとその数4万人にのぼっていた。揚州だけでなく、中国各地に門下生を抱えていたという。鑑真、この時46歳。
もちろん様々な苦労はあったであろうが、順風満帆とも言える日々を送っていた。

そんな最中、時を同じくして海の向こうの日本から二人の青年が唐を訪れることになる。二人の名は、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)と言った。
日本に、仏教の戒律を正しく伝授出来る僧を中国から招聘するために、遣唐使として派遣されることになったのだ。

当時の遣唐使船は、無事に帰還できる人数の割合は、全体の約6割程度。
まさに命懸けの旅路であった。無事に唐に着くことは出来でも、帰国の船で遭難してしまうこともある。二度と祖国の地を踏むことが出来ぬかもしれない。望郷の想いは絶えず、二人の胸を締め付けただろう。
それでも異国の地で新たな学びを得るために、そして日本に規範となるべき偉大な僧侶を招聘するために、彼らは旅に出たのだった。

その後、幸運にも唐に辿り着くことが出来た二人は、9年もの学びを経て、鑑真と出会うことになる。
そして、必然の縁に導かれるように、それぞれの旅路が交錯する時、ついに大いなる物語が動き始めることになるのであった。

交錯する旅路

意志を越えた出会い

普照と栄叡が、日本への招聘の依頼をするために、鑑真のもとを訪れた時、鑑真は弟子にこう語りかけたという。
「この中に仏法を伝えに日本へ行く者はいないか」と。
しかし、無事に着くかどうかも分からぬ命懸けの旅。誰も黙して答えなかった。
それに対し、悩む間もなく鑑真は「これは仏のためで、命を惜しむことではない。私が行くだけだ。」と静かに語り、なんと鑑真自ら渡日を決意する。

当初二人は、よもや鑑真本人が日本に来てくれるなどとは、考えだにしなかった。
なぜなら彼らは、鑑真に対し、門下生に渡日をお願いして欲しいとだけ伝えていたからだ。何より一番驚いたのは、依頼に訪れた二人であったのではなかろうか。

鑑真の持つ人並外れた感性が自らの宿命を直感的に感じ取ったのか。
彼らの中にただならぬ情熱を感じ取ったのか。その決断に至る想いは、今では誰も知る由もない。

後に、唐招提寺の障壁画を描くことになる画家・東山魁夷は自著で、この時の決断についてこう語っている。

「超人的な業を成し得た人は、むしろ、自己の意志に頼らなかった人が多いのではないだろうか。人間の意志の限界を知っていて、それよりも遥かに大きなものに身を任せたと考えないではいられない。」
(著者 : 東山魁夷『唐招提寺への道』 新潮社より )

まさに意志を越えた何かに導かれるようにして、鑑真は、新たな旅路へ向かうことになる。

喪失と悲願を抱きながら

運命とは不思議なものである。
様々な偶然が重なり合うように導かれたその旅路は、決して簡単な道のりではなかった。
運命そのものが、その運命自体のありようを問うかのように、幾度もの試練を与えたのだ。

渡航を決意してから、12年もの歳月の中で、5度もの渡航の失敗に見舞われた。
時に仲間の密告にあい、時に政府の監視網に見つかり、時に遭難をするという苦難の連続であった。

また、その中で数々の数え切れない別れもあった。
普照の無二の親友でもあった栄叡は、命を落とし、鑑真の愛弟子の祥彦(しょうげん)も船旅の途中で命を落としてしまう。不屈の人のような印象を受ける鑑真であるが、この時ばかりは、「彦や、彦や」と弟子の彦の名前を何度も呼びながら悲しみに暮れたという。
そして、苦難は重なり、長旅の苦労のせいか、鑑真は失明し、光を失ってしまう。

なんという苦しみであろうか。
運命の無常さ、人間の弱さを否応なしに突き付ける月日であった。
しかし、彼らは決して諦めることはなかった。
そして、ついに6度目の渡航で、悲願の日本への上陸を果たす。鑑真この時、66歳。

14歳の少年が歩み出したあの日から、50年もの歳月が流れていたのだった。
後編に続く

Reference :

  • 「鑑真」
    著者:
    安藤更生
    出版:
    吉川弘文館
  • 「唐招提寺への道」
    著者:
    東山魁夷
    出版:
    新潮社
  • 「天平の甍」
    著者:
    井上靖
    出版:
    新潮社
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