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2023.4.28
[ 第3章 ]

水の都・大阪の
知と美の記憶を求めて

Wisdom
of Osaka
Wisdom of Osaka
第3章
Wisdom
of Osaka

水の都・大阪。
かつて大阪は「アドリア海の女王」とも称されたイタリアが誇る水の都「ヴェネツィア」を見立て「東洋のベニス」と謳われた。

都市の中を網の目のように張り巡らされた水路。
その水路を人々が行き交いながら描かれる美しい都市の風景。
それはまさに日本が世界に誇る「水の都」であった。

そんな水の都・大阪の多様な物語を辿りながら、大阪の町に息づく「知」と「美」の記憶を紐解いてゆく「水の都・大阪の知と美の記憶を求めて」。

全5話の3話目となる「第3章」のタイトルは、「人々が紡いだ知の記憶」。
今回の物語では、大阪の町を舞台に独自の知恵を育んだ商人たちの「知」の記憶を紐解いてゆく。
そこには商いという枠組みを越え、多くの人々の指針となる知恵が流れていたのだった。

第3章
人々が紡いだ知の記憶
Memories
of Wisdom
Memories
of Wisdom

紡がれた知の記憶

三つの言葉

江戸時代の大阪の自由な風土が生み出した数々の商人の栄枯盛衰。
そうした姿を間近で見つめながら、自らの「知」を育んでいった大阪商人。
その「知」のはじまりは、各々の商人の心の中で育まれ、それぞれに異なった考えがあっただろう。

しかし、それぞれの商人が商売を通し、多様な人々と関わり交流を重ねてゆく中で、いつしかそれぞれの考えは、大阪商人が共有する普遍的な「知」の記憶として紡がれてゆくのである。

それはある三つの言葉の中に集約されてゆく。

その言葉とは、「才覚」「算用」「始末」という三つの言葉。
短い言葉ではあるが、それぞれの言葉の中には、あらゆる商売の基本となる考えが詰まっているのだ。

また商売とは、単に物を売るというのではなく、その本質は人と人を結んでゆくことで価値を描く生業であるとも考えられる。
だからこそ、それぞれの言葉は商売という枠組みを越え、多様な場面でより良い人間関係を築いてゆくために、多くの人々の指針となり得る言葉になるのではないだろうか。

そんな大阪商人が紡いだ、ひとつひとつの言葉の意味を辿ってゆくために、
それぞれの言葉を実際の商売に生かし、成功を収めた一人の商人の物語を辿りながら、その言葉の意味を明らかにしてゆきたい。

天下第一の商人を目指して

その商人の名前は、下村彦右衛門ひこえもんといった。
生まれは、京都・伏見。
19歳になった時に、父の手がけていた古着商・大文字屋を継ぎ行商を始める。
そして29歳の時、地元・伏見店に小さなお店を構えた。

そのお店の屋号は「大文字屋呉服店」。
屋号を表す意匠には、「大」という漢字を周囲を「丸」で囲んだモチーフを選んだ。
そのモチーフは、一と人を合わせた「大」という字を宇宙・天下を示す「丸」で囲むことで「天下第一の商人であれ」という彼の強い意志を表現していた。

そうこの店こそ、後に「大丸百貨店」として、時代を越え、その名を日本中に轟かせることになる、百貨店の最初の店であったのだ。
つまり下村彦右衛門とは、百貨店「大丸」の創業者その人自身である。

その後、彼はさらなる商売の発展を目指し、1726年に大阪へと商売の中心を移し、心斎橋にお店を出店する。
そして、2年後には、名古屋にもお店を開き「大文字屋呉服店」から「大丸屋」と改称し、さらなる発展を遂げてゆくことになる。
彼の胸の中にあった「天下第一の商人」への道は、大きく開かれつつあったのである。

三つの言葉と物語

福助人形と「才覚」

「天下第一の商人」目指し、その道を歩み始めた彦右衛門。
その原点は、彼が手がけた小さな行商から始まった。
そんな行商の中に彼の「才覚」を表すエピソードを見つけることが出来る。

下村彦右衛門は、人並み外れて背が低かったという。
さらに頭が大きく、耳たぶが垂れ下がった風貌をしていたのだ。
そのため特徴的な外見を揶揄され、まさに福助人形そっくりだと幼い頃は人にからかわれることもしばしばあった。
しかし、彼はじっと我慢して、いつも笑顔で人に接していたのだった。

そんな少年時代を過ごした彦右衛門だったが、19歳にして行商を始めた彼は、ある行動に出る。

行商をしながら「福助人形が参りました」と独自の宣伝文句を謳いながら、歩き回り始めたのだ。
そんな自らの特徴的な容姿を逆手にとった彼の行動は、多くの人々の心を掴んだという。
彼の掛け声を聞いた道ゆく人々を思わず笑顔にさせてしまう、まさに動く広告塔となったのだ。
もちろんのこと彼の商売は、大繁盛。

さぞ自らの容姿にコンプレックスを持っているのかと思いきや、発想の転換で多くの人を楽しませ、広告にまでしてしまう根っからの商売人だったのだ。
またそうして商売を繁盛させた事から、人々は彦右衛門のことを「福の神のような人」と呼び始め「福助」の愛称が定着するほどの人気を博したという。

「才覚」とは、創意工夫をすること。
現代の言葉で言えば、アイデアという言葉が近いかもしれない。
どうすれば経営が上手くいくか。どうすればお客様に満足して頂けるか。
そのことについて、日々努力を重ね、商いにまつわる創造性を育んでゆくことが「才覚」だと言われている。

人によっては引け目に感じてしまうかもしれない自らの容姿を、発想を切り換え広告にして人気を集めた彦右衛門は、宣伝が抜群に上手かった。
その後も商売を発展させてゆく過程で、次々と新たな広告手法を展開する。

当時大躍進を遂げていた呉服屋「三井・越後屋」に着想を得て、丸に大の字の「大丸屋」の商標を染めた風呂敷を作り、品物を包んで京都から江戸まで運ばせたのだ。
当時の運送の際に主要な幹線道路として使われていたのは、江戸・日本橋から京都・三条大橋をつなぐ東海道。
その道を「大丸」の商標が入った風呂敷包みを担いだ人々が大勢、行き来することになったのだ。

もちろんのこと宣伝は大成功。
物を運送する過程をも広告にした印象的な宣伝は、多くの人々の記憶に残り、たちまち大丸の名は有名になったという。

その他にも、「大丸」の商標が入った手拭いをお寺や神社に大量に寄付するということも行った。
寄付した手拭いをお手洗いの出口に吊るしてもらうというお願いを添えて。

そのことで用を済ませた参拝客は、手を拭くときに必ず「大丸」の文字を目にすることになったのだ。
もちろんこの宣伝も上手くいき、さらに多くの人々に「大丸」の名は知れ渡ったのだ。

老若男女、地域を問わず多くの人の記憶に残る宣伝を次々と手掛けた彦右衛門は、まさに「才覚」の持ち主だったと言えるのではないだろうか。

発想を支えた「算用」

自らの「才覚」を生かし、斬新な発想の広告手法で多くの人々の心を掴んだ、彦右衛門。
そんな彼の事業を大きく発展させてゆく礎となったのは、あるひとつの商法であった。
それは「現金安売り掛け値なし」というもの。
現・三越伊勢丹の起源となる呉服屋「越後屋」を創業した、三井高利が日本で初めて手掛けた商法だった。

その方法とは、呉服を販売する小売店を構え、店頭でお客さんに現金取引で販売するという方法。
現代の私達から見ると、何ら新しい方法ではないように感じるが、当時としては斬新な方法だったのだ。

当時の呉服店では、小売店を構え、店頭で品物を販売することはなかった。
事前注文か、直接販売かの二通りのみ。
さらにその支払いは、一年に2、3度ある支払い時期にまとめて支払う、掛売りが慣習であった。

そのため販売価格には、貸倒れのリスクや掛売りの際に発生する利息を考慮した金額を設定する必要があったのだ。
それに伴い商品の値段も高くなってしまっていた。
加えて、その支払い時期は年に2、3度のみで、呉服商たちは一様に資金繰りに苦労していたのである。

そんな時代において、現金取引で店頭で直接販売するということは、従来の常識を大きく覆す革命であったのだ。
実際に、その商法を先駆けた「越後屋」は大きく発展してゆく。
その方法に目を付けたのが「大丸屋」の下村彦右衛門だったのだ。
しかし、「現金安売り掛け値なし」を展開するには、店頭に多くの商品を並べ、日々多くの現金取引をする必要がある。

それはつまり、これまで以上に細かな在庫や金銭の管理が必要となるとも言える。
まさにそうした状況を支える感覚こそが「算用」という言葉に込められているのだ。

「算用」とは、経営を成り立たせる計算のこと。
商売は、当然ながら儲けがなければならない。
そのためには、様々なことを計算してゆく必要がある。

いくらで仕入れ、売ったのか。粗利益がいくらあるのか。
人件費と設備費はいくらか。その上で、利益はいくら残るのか。
そうして商売で必要なあらゆる費用を細かく捉え、利益を見定めてゆく。

事業を成立させるために、あらゆるお金の動きを正確に捉える感覚を持つことの必要性が「算用」という言葉には込められているのだ。

実際に下村彦右衛門は、最も重要な家訓のひとつとして、お金の動きが見えにくい外商に出た際には、必ず毎夜きちんと計算して帳簿付けをすることを店のものに言い付けていたという。
当時としては、一見斬新に見える発想も、その裏での地道な「算用」という営みがあったからこそ実を結んだとも言えるのではないだろうか。

社会へのまなざしと「始末」

創意工夫で事業を発展させる「才覚」と堅実な経営を支える「算用」。
その二つが揃えば十分に商売を発展させてゆくことが出来ると感じるかもしれない。

しかし、商売の基本は人と人を結ぶことで価値を生み出してゆくこと。
社会との正しい関わりがなければ、最後は足元をすくわれてしまうのが世の常である。
それは、大阪の豪商「淀屋」の栄枯盛衰を辿ってゆけば明白ではないだろうか。

まさに「始末」という言葉には、商売をする上で大切にするべき社会へのまなざしが込められているのだ。
下村彦右衛門が掲げ、代々受け継がれた「大丸屋」のある標語がある。
それは「先義後利」という言葉。

中国の儒学の祖の一人、荀子が語ったとされる「義を先にして利を後にする者が栄える」という意味を持つ言葉である。
自らの利益ばかりを追うと人を騙してまで儲けようという考えになり、最終的には失敗してしまう。

目先の利益ではなく、人や社会の役に立つことをまず第一に考えること。
そのことによって社会全体が潤い、長い目で見れば自らも豊かになるという意味を持つ言葉である。

「始末」とは、商人が守るべき質素、倹約を表した言葉。
それは商人が日々の暮らしの中で守るべき規範を表した言葉とも言えるだろう。
そこには、ただ倹約し、出費を少なくするという意味だけでなく、その行いによって身を正し、誠実に社会と向き合うというという意味も込められている。

例えば「始末の心」とは、簡単に物を捨てるのではなく、物の命を大切にすることを表す。
物の命を大事にするということは、そこに関わる人も大切にすることにも繋がってゆく。
そして、人を大切にするには、何よりも正直に商売しなければならない。

しかし、ひとたび贅沢に走り、出費が多くなってしまうと大儲けを考える欲が生じてしまい、悪どい商売をすることになる。
そうした行いを戒めるために日々質素、倹約を守ることが大切であると。
「始末」という言葉には、質素、倹約という行いを起点にした社会へのあるべきまなざしが込められているのだ。

実際に下村彦右衛門は、質素であることを家訓として掲げ、決して驕ることなく「先義後利」の精神で商いを継続させていったのである。

言葉がもたらしたもの

信頼を描いた言葉

大阪商人たちが自らの経験をもとに紡いだ「算用」「才覚」「始末」という言葉。
「大丸屋」を創業し、その後数百年続いてゆく企業の礎を築いた下村彦右衛門は、それぞれの言葉を自らの商いの中に確かに宿し、表現していた。

それぞれの言葉に流れる教えは、かつての豪商・淀屋が辿った歩みと比較するとより明確に、その意味を私たちに教えてくれるのではないだろうか。
実際に、社会への貢献を常に第一に考え、商いを手がけた「大丸屋」は、商人のみならず数多くの人々から信頼を得ていたという。

その信頼を表すひとつのエピソードがある。
1837年に、大坂町奉行所の役人であった大塩平八郎によって、ある反乱が起きる。
それは歴史に残る「大塩平八郎の乱」である。

その事件の背景にあったのは、数年前に起きた大飢饉だった。
その飢饉によって日本全国で合計30万人以上もの人々が飢えで亡くなったと言われている。

大塩平八郎は、そうした状況を憂い、困窮した人々を救うために自らの財産を売り払い、東奔西走しながら貧しい人々に配ってゆく。
だがその行動にも限りがあった。
そんな中、大阪の豪商による少ない米の買い占めが起き、その厳しい現状に拍車をかけたのだ。

そのことに怒り震えた大塩平八郎は、その現状を打ち崩し、飢えにあえぐ民衆を救うために武装蜂起を決意する。
そして、大塩平八郎を中心とした人々が私利私欲を肥やした豪商を襲う反乱を大阪の町で起こしたのが「大塩平八郎の乱」という事件だった。

この事件によって民衆に襲われ、焼かれた富豪は多いと言われる。
だが、このとき「大丸屋」は焼失をまぬがれたという。
それは彼らの一派が「大丸屋」は社会的正義を持った商人だと考えていたからであった。
「大丸は暴利を貪らず、神社仏閣への寄進と貧民の救済に尽くした」と。

この事実はまた、一見目には見えないようなささやかな行いも人々はしっかりと見届けていること。
そして、その行いは、良いことも悪いことも、いずれ形となって現れることを私たちに教えてくれる気がする。
だからこそ、常に自らの歩みを見直すための「知」が必要であると。

知の背景に流れるもの

そして、その時代に多くの人々によって紡がれた「知」は、決して時代と共に消えてゆくことはなかった。
紡がれた「知」の記憶は、時を越え、大阪商人が共有する普遍的な「知」の記憶として受け継がれてゆくのである。
一体それはなぜなのだろうか。

それはただ頭で理解する知識ではなく、実際の経験を通し、生きた知恵として育まれていったことがひとつの理由だと思う。
だからこそ、実際の現場で、その知恵を長きに渡って活かすことが出来た。

さらに言えば、複雑な言葉ではなく、シンプルなたった三つの言葉の中に様々な商売の教えを込めたことも、もうひとつの理由ではないだろうか。
シンプルだからこそ、誰もがすぐに覚えることが出来る。
そして、シンプルだからこそ、それぞれの言葉の中に多くの想像の余地が残され、特定の商いではなく、様々な商売の中に活かすことが出来たのだと。

しかし、理由は、それだけではないと思うのだ。
もっとも大きな理由は、当時の大阪の町に流れる雰囲気だったのではないだろうか。
大阪の町の自由な雰囲気の中で、多くの交流が重ねられ、自由闊達な対話がなされたこと。
そして、そうした関係性の中で育まれた末に、実った知恵であったということだと。

だからこそ、他の誰から得た知識としてではなく、ひとりひとりが自らの言葉として、それぞれの言葉の意味を深めてゆくことが出来た。
そのことが頭ではなく、心で言葉を理解することに繋がり、ひとりひとりが自分自身の言葉として語ることが出来たのだと。

時代を越え受け継がれるために必要となるのは、義務感や責任感だけではないのだと思う。
その言葉に感動し、心を動かされた多くの人々がいたからこそ、熱を持って自らの経験を交え、その言葉を語り、その言葉を聞いた人々もまた何かを感じ、その言葉を受け継いでゆく。

そんな幾重もの連鎖があったからこそ、普遍的な「知」の記憶として残されていったのではないだろうか。
つまりそれは、その「知」の記憶の中に、無数の人々の夢や希望、挫折や失敗も含めた生きた「心」が宿っていたのだ。

そして、その生きた「心」は、大阪の町の自由な空気が育んだのである。
そしてまた、その時代の空気は決して一時的なものでなく、江戸時代を代表するひとつの文化となってゆく。

文化とは、ある時代を生きた無数の人々の想いがある特定の方向に重なり合ってゆくことで生まれてゆく。
それはある時代の熱狂の記憶と言ってもいいかもしれない。

人々が何を喜び、悲しみ、感動していたのか。
そこには、その時代の人々が大切していた価値観が流れているのだ。
それはまた、時代の美学とも言い換えることが出来るかもしれない。
つまり文化とは、ある時代の「美」の記憶であると。

水の都・大阪が育んだ「知」の記憶が育まれ、時を越え受け継がれていった背景には、大阪の人々が紡いだ「美」の記憶が流れているのだ。
では、その「美」の記憶とは一体どのようなものだったのか。

その記憶を紐解いてゆくと、普遍的な「知」の記憶へと繋がってゆく、人々の物語が流れていたのである。

■ 第4章 : 「曽根崎の森の中で」へ続く

Reference :

  • 「大阪商人」
    著者:
    武光誠
    出版:
    ちくま新書
  • 「水都大阪物語」
    著者:
    橋爪紳也
    出版:
    藤原書店
  • 「商いの精神」
    著者:
    西岡義憲
    編集:
    大阪府「なにわ塾」
    出版監修:
    教育文化研究所
  • 「市民大学の誕生」
    著者:
    竹田健二
    出版:
    大阪大学出版会
  • 「懐徳堂の至宝」
    著者:
    湯浅邦弘
    出版:
    大阪大学出版会
  • 「日本永代蔵」
    著者:
    麻生礒次 / 富士昭雄
    出版:
    明治書院
  • 「西鶴に学ぶ 貧者の教訓・富者の知恵」
    著者:
    中嶋隆
    出版:
    創元社
  • 「上方文化講座・曽根崎心中」
    著者:
    大阪市立大学文学研究科「上方文化講座」企画委員会
    出版:
    和泉書院
  • 「石田梅岩 - 峻厳なる町人道徳家の孤影」
    著者:
    森田健司
    出版:
    かもがわ出版
  • 「AD・STUDIES vol.5 2003」
    発行:
    財団法人 吉田秀雄記念事業財団
Category :
  • text / photo :
    HAS
    HASは、多様な美しい物語を紡いでゆくことで「物語のある暮らしを提案する」ライフストーリーブランド。ライフストーリーマガジン「HAS Magazine」のプロデュース、デザインスタジオ「HAS Couture」を手掛ける。
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