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2021.4.20

鬼才画家 エゴン・シーレの物語・後編 Egon Shiele's Story

成功と名声の先で手にしたもの

わずか28歳でこの世を去った夭折の天才画家、エゴン・シーレ。
彼の描いた時に異様さを伴うような、躍動的で美しい作品の数々は、今もなお多くの人々の心を捉え続けている。
そんな数々の作品を作り上げた画家の人生に耳を傾けてみると、様々な苦難に直面しながらも情熱を持って歩み続ける、一人の青年の姿があった。
世紀末のオーストリアを狂おしいまでの情熱で駆け抜けるように生きた、エゴン・シーレ。
様々な作品の裏側に隠された、一人の画家の人生の物語を辿ってゆく。

  • text STUDIO HAS

Series :

鬼才画家 エゴン・シーレの物語

Profile :

エゴン・シーレ

1890年から1918年にウィーンを中心に活躍したオーストリア人画家。
幼少期から類稀なる才能の片鱗を見せる。だが、その才能ゆえに世間の常識や規則との軋轢に苦しみ、数々の称賛を受けながらも、常に様々な批判にさらされる。
そうした苦難を乗り越え、1918年、第49回ウィーン分離派展に出展した作品が大きな注目を集める。しかし、同年ヨーロッパを中心に流行したスペイン風邪によって、若干28歳の若さでこの世を去る。


Two Girls lovers, 1911

ノイレングバッハ事件と投獄

時を同じくしてシーレは、「永遠なる子供」と表現していた自分自身と重ね合わせるかのように、シーレの被写体への興味は大人のモデルから子供のモデルへと移り変わっていった。
そして、引っ越した先であるノイレングバッハで出会った好奇心旺盛でわんぱくな子供たちは、未知の世界から来た見聞ある大人に憧れを抱き、シーレが払えるだけのわずかな報酬にも喜んで応じ、子供たち自身が進んでモデルとなり、シーレは、子供をモデルにして様々な絵を描いていった。
その関係は、決して後ろめたいものではなく、概して無邪気なものであったが、都会であるウィーンとは異なり、当時まだまだ閉鎖的であった田舎では、その光景は受け入れ難いもので、周囲の目は非常に厳しいものであったという。

moa, 1911

そんな中、一つの大きな事件が起きる。後に、ノイレングバッハ事件と言われる事件である。
当時、村に住む退役海軍将校の娘タナチアがシーレに熱烈な憧れを募らせ、シーレに付きまとっていた。そして、1912年の春のある日、家出をつげ、シーレと当時のパートナーであるヴァリーのいる村から遠く離れたアトリエに押しかけたのである。追い返すことも出来ず困り果てた二人は、仕方なしに近くのホテルで三人で宿泊し、翌日にタナチアを連れてノイレングバッハに引き返すことに。

しかし、なんとちょうどその時、タナチアの父親が誘拐とレイプの嫌疑でシーレを警察に告訴していたのだ。
実際の所、誘拐の容疑は取り下げられたものの、そのことをきっかけとして警察がシーレのアトリエを調べた結果、エロティシズム的な表現を持つ作品を発見し、「公序良俗に反する行為」の罪とタナチアと肉体的な関係は持っていなかったにも関わらず「未成年の少女に対する性犯罪」の罪で立件されてしまうことになったのだ。
結果的に短い期間ではあったが、冤罪にも関わらず24日間もの間、勾留されることになった。

sleeping girl, 1911

この事件は、シーレの心を深く傷つけただけでなく、様々な仕事を失うなど、その日の暮くらしもままならないほどの経済的な打撃をも与え、シーレは、大きな苦悩を抱えることになる。

だがこうした不条理にも思える運命の荒波は、後のシーレの生き方に結果として良い意味での影響を与えることになるのであった。
それは、この事件が自分自身を客観的に見定める機会にもなり、自分自身のことだけでなく、広く社会を思い遣る、多角的な視点を身に付ける機縁となり、後のシーレの歩みに少なからぬ影響を与えることになったのだ。

Door to Freedom, 1912

戦争の中で芽生えた平和への想い

時は1915年、25歳になろうとするこの年の6月17日、シーレは新しいパートナー、エディット・シーレと結婚することになる。
しかし、その僅か3日後には、召集令状が届き、シーレは一人、プラハの駐屯地に向かうことになる。
そうこの時、史上最大の戦争の一つともいわれる、1914年から始まった第一次世界大戦が否応なしに、シーレの行末をも巻き込んでいくことになるのだった。
後にこの時のことをシーレは「自分の人生でもっとも厳しい時期だった」と語っている。しかし、同時にこの従軍という、辛く厳しい経験は、シーレにまた新たな想いを芽生えさせる大きなきっかけになった。

Nude with Blue Stockings Bending Forward, 1912

1916年3月、シーレはウィーンにほど近い町リージングで捕虜となったロシア将校たちが収容された施設の警備を受け持つことになった。
その機会を生かし、シーレは収容されている様々な捕虜たちの肖像画を描くことになる。
そこで目にした、捕らえられ、恐怖に怯え、時に病に犯され、怪我をおった人々は、これまでの顔の見えない敵ではなく、一人の苦しみを負った同じ人間として、シーレの目には映った。
そこには、自分自身も投獄という苦しい心の傷を負ったからこそ、感じ取れる彼らの苦しみがあったのかもしれない。

Russian Prisoner of War, 1916

シーレは、ロシア語が話せた訳ではないが、何か心の中で通じ合ったものを感じ、こう語っている。

「彼らは私と同じように永遠の平和を希求しているんだ。彼らを突き動かすのはヨーロッパをひとつに統合するといった思想だ」
(著者 ジェーン・カリアー 翻訳/編集 和田京子 『エゴン・シーレ ドローイング 水彩画集』 新潮社より )

そしてまた、こうも語っている。

「夜、戦争のことで議論になった。誰もが、戦争の終結を望んでいる。どんな結果であっても。自分がどこで生活していようと、つまりどの国に属していようと、僕にとってはどうでもよいことだ。いずれにせよ、ぼくは相手側、つまり僕らの敵に心を引かれる。彼らの国は、ぼくらの国よりも興味深い。あちらには本当の自由がある。自分の頭で考える人びとがいる。」
(著者 ジャン=ルイ・ガイユマン 監修 千足伸行 翻訳 遠藤ゆかり 『エゴン・シーレ 傷を負ったナルシス』 創元社より )

Little Tree Chestnut Tree at Lake Constance, 1912

そう語る心の中には、ひたすらに平和を望む強い想いがはっきりと芽生え始めたのだった。
苦しい戦争の経験が、シーレ自身の価値観をこれまでの自分自身の自由を求める戦いから、より多くの人の幸せを願う普遍的な祈りへと昇華させることになった。
そして、投獄、戦争と立て続けに身にふりかかった災いは、受け入れ難い経験ではあるが、この経験が結果的に、一本の線となり、シーレ自身を大きく前向きに変革させる大きな機縁になったと言えるのではないだろうか。

Egon Schiele Self Portrait With Hands on Chest, 1910

掴み取った名声、そして早過ぎる死

1917年、シーレ 27歳の時、ウィーンに帰還することになる。その時もなお戦争が続いていた為に、引き続き大半の時間を帝国陸軍での看板描きや帳簿付けといった事務的な仕事に注ぐ必要があったが、以前にもまして、より精力的に作品制作を行うことになる。実際に、ウィーンの帰還の際に、今後の指針について手紙でこう綴っている。

「まったく新しい門出に立ちたいんだ。いままでは、単に道具を準備してきたにすぎないように思える。」
(著者 ジェーン・カリアー 翻訳/編集 和田京子 『エゴン・シーレ ドローイング 水彩画集』 新潮社より )

実際に1917年は、シーレの生涯の中でもっとも多作な年となった。そして、そのシーレの志と呼応するように、様々な仕事が舞い込み、想いが形となっていくことになる。
初の画集の出版を実現すると、瞬く間に完売。そのことをきっかけにコレクターや編集者、記者といった様々な人々から依頼が殺到するなど、シーレのもとに大きな追い風が吹き始める。

Kneeling Female, 1910

また最終的には断念することになったが、戦争の中で芽生えた平和への強い想いとより多くの人の幸せを願う慈愛の想い、そして芸術と文化への強い想いが結びついた「クンストハレ」という新たな組織を結成することになる。

「クンストハレは、詩人、画家、彫刻家、建築家、音楽家といった、すべての芸術活動をするひとびとが社会と協力し合う場だ。これまで悪化の一途を辿ってしまった文化の崩壊をくい止めるために、同志が結集する場なのだ」
(著者 ジェーン・カリアー 翻訳/編集 和田京子 『エゴン・シーレ ドローイング 水彩画集』 新潮社より )

そう高らかと掲げた理想の背景には、かつて個人の自由を追い求めた若かりし、シーレの姿を見ることは出来ない。そこには、ウィーンの芸術界を牽引する一人のリーダーとしての強い自覚と矜持を感じとることが出来る。

Bearded Man Standing, 1913

そうした勇ましい歩みの中で、シーレにも強い影響を与え、ウィーンの芸術界を名実ともに代表していたグスタフ・クリムトが脳卒中に伴う合併症で1918年2月6日この世を去ることになる。クリムト 55歳、エゴン・シーレ、28歳の年のことである。
しかし、悲嘆に暮れる間もなく、その数ヶ月後の春に開催された展覧会で、ついにシーレは一躍、オーストリア芸術界の時代の寵児として広く知られることになる。
なんと彼の展示した作品のほとんどに注文が殺到し、将来の作品のウェイティングリストまで作られたというから驚きだ。
この時、展覧会をともにした仲間たちが口を揃えて「シーレが展覧会を乗っ取った」と語っていたことが何よりの証拠だろう。
学校の教育に馴染めず、時に疎まれ、さらには投獄、戦争など様々な苦難を乗り越えながら、ついにシーレは名声を掴み取ることになる。

Friederike Beer in Striped Dress with Raised Arms, 1914

しかし、そうして手にした名声は決して長く続くことはなかった。クリムトの死から僅か9ヶ月後の10月31日、エゴン・シーレは永遠の眠りに付くことになる。1918年11月11日まで続いた世界大戦の為、あらゆる物資が困窮する中、世界中でなんと5000万人もの死者を出したという「スペイン風邪」が当時のヨーロッパで猛威をふるったのだ。シーレの妻 エディットは、妊娠中にウイルスに感染してしまい、シーレの献身的な看病にも関わらず、命を落としてしまう。

「あなたへの愛は永遠よ。あなたを限りなく、言い尽くせないほど愛しています。」

そう最後の言葉を言い遺して。シーレが亡くなる3日前の1918年10月28日の朝のことだった。

I Love Antitheses, 1912

そして、悲しみに暮れるシーレ自身も既にスペイン風邪に感染していたのだった。病に侵され、意識を失う前に、シーレは友人であるぺシュカと最後の会話を交わしている。ぺシュカが「もう、平和は手のひらの中にあるんだよ」と語りかけた時、シーレはその言葉に対し、ほっとした様子で静かに返事をしたのだった。

「もう、戦争は終わったんだね。でも私は、行かねばならない。」
そう最後の言葉を言い遺した後、その日の夕方、シーレは昏睡状態となった。
妻の死から僅か3日後の1918年10月31日午前1時、妻のあとを追うように、彼は、母親と姉に見守られながら永遠の眠りに付いたのだった。28歳のあまりに早い、早過ぎる別れであった。
その日は、無念にも第一次世界大戦が終わる11日前。
戦争が終わった喜びをその身で感じることもなく。

Standing Girl Wrapped in Blanket, 1911

夭折の天才画家、時代を駆け抜けた鬼才などと評されるエゴン・シーレは、あまりにも早く、そしてドラマチックな死とその恐ろしいまでに飛び抜けた表現力のために、時にシーレ自体を神秘のベールで包んでしまう。
しかし、彼の歩んで来た物語に耳を傾けた時、そこには私たちと同じように、数多くの苦悩や過ちを抱えながら、歩み続けた一人の青年の姿を見ることが出来る。そして、その卓越した表現力も、生まれ持った才能だけでなく、月並みな言葉になってしまうが、圧倒的な努力の中で磨かれた修練の賜物だと言うことが出来るのではないだろうか。

時代の波に翻弄されながらも、ひたむきに己を信じ描き続けたエゴン・シーレ。彼が最後に語った戦争への想いは、彼の死後100年が経った今も果たされてはいない。彼の早過ぎる死は、私たちに大きな宿題を残したようだ。

シーレの描き出す躍動する人々のように、私たちも歩み続ければならないと。
いつか私たちが、彼方の地でシーレに出会う時、「本当に終わったんだよ」そう伝えることが出来るように。(完)

Series :

鬼才画家 エゴン・シーレの物語
  • text STUDIO HAS

Reference :

  • [ エゴン・シーレ 傷を負ったナルシス ]
    著者:
    ジャン=ルイ・ガイユマン
    監修:
    千足伸行
    翻訳:
    遠藤ゆかり
    出版:
    創元社
  • [ エゴン・シーレ ドローイング 水彩画集 ]
    著者:
    ジェーン・カリアー
    翻訳・編集 :
    和田京子
    出版:
    新潮社
Category :
  • text
    STUDIO HAS

    STUDIO HAS(スタジオ・ハス)は、京都を拠点に編集とデザインを通して、暮らしの中にある美しい物語を紡いでいくクリエイティブスタジオ。
    美しい物語と人を繋いでいくことを指針とし、HAS Magazine(ハス・マガジン)の運営と様々なデザインワークを手掛けている。

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