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狂おしいほどの情熱で駆け抜けた ウィーンの画家 エゴン・シーレの物語を辿る1/3
Contents

1幼少期からアカデミーまで

絵を描くことに没頭した少年時代

1890年6月12日、ドナウ川沿いにあるオーストリアの町トゥルンでエゴン・シーレは生まれた。 1890年は、世界的に有名な作品「ひまわり」を描いたオランダ出身の画家、フィンセント・ファン・ゴッホの死没した年だ。
後年、ゴッホの作品と出会い、深く感銘を受けたシーレは、自身の生まれた年と重ね合わせ「自分はゴッホの生まれ変わりではないか」と考えるほどに彼に強い影響を与えることになる。

The Daydreamer (Gerti Schiele) , 1911

シーレは、三人兄妹の次男として、度重なる死産と流産を乗り越えて生まれたシーレ家の唯一の男の子として、大切に育てられたという。
母親マリー・シーレが幼少期のエゴン・シーレのことを振り返り「初めて絵を描いたのは、彼が1歳半になったばかりの頃だったわ」と語っている通り、早熟の天才は幼くして既に芸術家への道のりを歩み始めたのだった。
そうしたシーレの才能を家族も認め、彼の才能が将来より良い形で結実することを誰もが期待し、望んでいた。しかし、それはあくまで芸術家としての成功ではなく、より良い職業人としての成功であり、トゥルンの駅長として働いていた父親アドルフが思い描く「手先な器用な息子が技術者として出世して欲しい」という期待を込めた想いとシーレの絵に対する想いは年を重ねるごとに乖離していったことは想像に難しくない。

Male Nude, Back View , 1910

実際に、こんなエピソードがある。芸術に対する情熱が日増しに大きくなっていったシーレがラテン語の勉強を怠って絵を描きたいと父親にせがんだところ、怒った父親がスケッチブックを取り上げて、ストーブに放り込んで燃やしてしまったというのだ。
その後、家族の意向で様々な学校へシーレを通わせるも、一向に成績は伸びず、かえって勉強への嫌悪感を募らせ、さらには規則だらけの学校制度への疎外感も感じるようになっていった。
そのことがより一層、シーレの芸術への想いを大きくしたとも言えるだろう。
しかし、そうした現実は、思いがけない不幸がきっかけとなり、大きく転換してゆくことになる。

Portrait of Karl Zakovsek , 1910

父の死とウィーン美術アカデミーへの入学

1904年、シーレが14歳の時、父親が病死したのだ。死因は、元々感染していた梅毒の悪化が原因だったという。
価値観の違いからぶつかり合うことも多かった父と子だが、父を慕っていたシーレにとってその事実は、大きな喪失感を伴うものだった。
そうした喪失感を埋めるように、以前にもまして絵に没頭していくようになる。しかし、それは同時に、これまで押し付けられていた勉強から解放され、自由に芸術に向き合うことが出来る大きな機縁となり、彼の芸術家への道が大きく開かれれてゆくことになる。

The Artist's Mother, Sleeping

The Artist’s Mother, Sleeping , 1911

父の死から2年後の1906年、ますます落ちゆく成績の末に、ついにシーレは学校を落第することになる。しかし、シーレは、そのことを好機と捉え、当時、難関とされたウィーン美術アカデミーへの進学を挑戦する。
周囲の反対をよそに、アカデミーの合格基準がきわめて厳しかったにも関わらず、形式的な受験勉強をすることなく、自作のポートフォリオを丹念にまとめ、受験に挑んだという。

couple

Couple , 1909

結果は見事に合格。なんと当時のアカデミーでは最年少の16歳でウィーン美術アカデミーに入学することになった。
深い悲しみが手繰り寄せた運命の糸に引っ張られるように、偉大な芸術家への一歩を歩み始めたシーレの人生に、どうしても不思議な命数を感じてしまう。

The Cellist

The Cellist , 1910

ウィーン美術アカデミーでの日々と運命の出会い

そうしてシーレが手繰り寄せた景色の先にあったのは、またしても退屈だった。芸術への高鳴る想いを胸に、意気揚々と門をくぐったウィーン美術アカデミーで行われていたのは、シーレの想い描いていた創造的世界ではなく、100年ものあいだ改訂されることなく続けられて来た、型にはまったカリキュラムであった。

Standing Figure with Halo

Standing Figure with Halo , 1913

そうした学校の在り方に馴染めずに、徐々に学校をさぼるようになる。
しかし、それでもクラスメートと足並みを揃えて学ぶことは難しくなかったというから驚きだ。当時の教授は、生徒たちに1日1枚のドローイングを描くように指導していたそうだが、シーレが日頃から描いている量に比べると、比べものにもならない量だったのだ。
このエピソードは、彼の絵は、決して天賦の才だけではない、ひたむきで圧倒的な努力が潜んでいることを私たちに教えてくれる。
そして、1908年、シーレが18歳の時、彼の運命を大きく変える出会いをすることになる。

Self Portrait

Self Portrait , 1912

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text : STUDIO HAS
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狂おしいほどの情熱で駆け抜けた ウィーンの画家 エゴン・シーレの物語を辿る
2020.3.10
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