水の都・大阪の
自由の風に吹かれて
自由の風に吹かれて
Wind of Liberty
Wind of Liberty
かつて大阪は「アドリア海の女王」とも称されたイタリアが誇る水の都「ヴェネツィア」を見立て「東洋のベニス」と謳われた。
しかし、戦後の高度経済成長の中で、多くの水路は、道路へと姿を変え、かつての水の都としての記憶は、時の彼方へと忘れ去られていった。
そんな水の都の記憶を辿ってゆくと、この土地に吹く自由の風に出会った。
その風は、多様な生き方を肯定し、個性豊かな文化を生み出していた。
そんな大阪の物語を紐解きながら、大阪に吹く自由の風に耳を澄ませてゆく「水の都・大阪の自由の風に吹かれて」。
中編「自由の哲学」では、ある商人の足跡を辿りながら大阪が育んだ自由の哲学を紐解いてゆく。
- text / photo HAS
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[ 序章 ]自由の風の調べ -
[ 前編 ]儚き夢と共に -
[ 中編 ]自由の哲学 -
[ 後編 ]曽根崎の森で -
[ 最終編 ]風のささやき
of Liberty
of Liberty

天下第一の商人
江戸時代の大阪の自由な風土が生み出した数々の商人の栄枯盛衰。
そうした姿を間近で見つめながら、それぞれの商いの知恵を育んでいった大阪商人。
その知恵は、多様な人々との交流の中で、大阪商人が共有する普遍的な知恵となり、ある三つの言葉の中に集約されてゆく。
その言葉とは、「才覚・算用・始末」という三つの言葉。
短い言葉ではあるが、それぞれの言葉の中には、あらゆる商売の基本となる考えが詰まっている。
商売の本質は、単に物を売るのではなく、人と人を結ぶことで価値を生み、自らの身を立てること。
だからこそ、それぞれの言葉は商売という枠組みを越え、自立し自由に生きるための哲学とも言えるのではないだろうか。

そして、その言葉を実際の商売に生かし、大阪の街を舞台に大きな成功を収めた一人の商人がいる。
その商人の名前は、下村彦右衛門ひこえもん。
生まれは、京都・伏見。
19歳になった時に、父の手がけていた古着商・大文字屋を継ぎ行商を始める。
そして29歳の時、地元・伏見店に小さなお店を構えた。
そのお店の屋号は「大文字屋呉服店」。
屋号を表す意匠には、「大」という漢字を周囲を「丸」で囲んだモチーフを選んだ。
そのモチーフは、一と人を合わせた「大」という字を宇宙・天下を示す「丸」で囲むことで「天下第一の商人であれ」という彼の強い意志を表現していた。

そう、この店は後に「大丸百貨店」として、その名を日本中に轟かせることになる、百貨店の最初の店。
つまり下村彦右衛門とは、百貨店「大丸」の創業者だったのだ。
その後、彼はさらなる商売の発展を目指し、1726年に大阪へと商売の中心を移し、心斎橋にお店を出店する。
そして、2年後には、名古屋にもお店を開き「大文字屋呉服店」から「大丸屋」と改称し、さらなる発展を遂げてゆくことになる。
彼の胸の中にあった「天下第一の商人」への道は、大きく開かれつつあったのである。

福助人形と才覚
「天下第一の商人」目指し、その道を歩み始めた彦右衛門。
その原点は、彼が手がけた小さな行商から始まった。
そんな行商の中に彼の「才覚」を表すエピソードを見つけられる。
下村彦右衛門は、人並み外れて背が低かったという。
さらに頭が大きく、耳たぶが垂れ下がった風貌をしていたのだ。
そのため特徴的な外見を揶揄され、まさに福助人形そっくりだと幼い頃は人にからかわれることもしばしばあった。
しかし、彼はじっと我慢して、いつも笑顔で人に接していたのだった。
そんな少年時代を過ごした彦右衛門だったが、19歳にして行商を始めた彼は、ある行動に出る。

行商をしながら「福助人形が参りました」と独自の宣伝文句を謳いながら、歩き回り始めたのだ。
そんな自らの特徴的な容姿を逆手にとった彼の行動は、多くの人々の心を掴んだという。
彼の掛け声を聞いた道ゆく人々を思わず笑顔にさせてしまう、まさに動く広告塔となったのだ。
もちろんのこと彼の商売は、大繁盛。
さぞ自らの容姿にコンプレックスを持っているのかと思いきや、発想の転換で多くの人を楽しませ、広告にまでしてしまう根っからの商売人だったのだ。
またそうして商売を繁盛させた事から、人々は彦右衛門のことを「福の神のような人」と呼び始め「福助」の愛称が定着するほどの人気を博したという。
「才覚」とは、創意工夫をすること。
現代の言葉で言えば、アイデアという言葉が近いかもしれない。
どうすれば経営が上手くいくか。どうすればお客様に満足して頂けるか。
そのことについて、日々努力を重ね、商いにまつわる創造性を育んでゆくことが「才覚」なのだ。

発想を支えた算用
自らの「才覚」を生かし、斬新な発想の広告で多くの人々の心を掴んだ、彦右衛門。
そんな彼の事業を大きく発展させてゆく礎となったのは、あるひとつの商法だった。
それは「現金安売り掛け値なし」というもの。
現・三越伊勢丹の起源となる呉服屋「越後屋」を創業した、三井高利が日本で初めて手掛けた商法だった。
その方法とは、呉服を販売する小売店を構え、店頭でお客さんに現金取引で販売するという方法。
現代の私達から見ると、何ら新しい方法ではないように感じるが、当時としては斬新な方法だった。

当時の呉服店では、小売店を構え、店頭で品物を販売することはなかった。
事前注文か、直接販売かの二通りのみ。
さらにその支払いは、一年に2、3度ある支払い時期にまとめて支払う、掛売りが慣習だった。
そのため販売価格には、貸倒れのリスクや掛売りの際に発生する利息を考慮した金額を設定する必要があったのだ。
それに伴い商品の値段も高くなってしまっていた。
加えて、その支払い時期は年に2、3度のみで、呉服商たちは一様に資金繰りに苦労していたのである。
そんな時代の中で、現金取引で店頭で直接販売するということは、従来の常識を大きく覆す革命だったのだ。
その方法に目を付けたのが「大丸屋」だったのだ。
しかし、「現金安売り掛け値なし」を展開するには、店頭に多様な商品を並べ、日々多くの現金取引をする必要がある。
それはつまり、これまで以上に細かな在庫や金銭の管理が必要になるとも言える。
まさにそうした状況を支える感覚こそが「算用」という言葉に込められているのだ。

「算用」とは、経営を成り立たせる計算のこと。
商売は、当然ながら儲けがなければならない。
そのためには、様々なことを事細かに計算してゆく必要がある。
いくらで仕入れ、売ったのか。粗利益がいくらあるのか。
人件費と設備費はいくらか。その上で、利益はいくら残るのか。
そうして商売で必要なあらゆる費用を細かく捉え、利益を見極めてゆく。
事業を成立させるために、あらゆるお金の動きを正確に捉える感覚を持つことの必要性が「算用」という言葉には込められているのだ。
実際に下村彦右衛門は、最も重要な家訓のひとつとして、お金の動きが見えにくい外商に出た際には、必ず毎夜きちんと計算して帳簿付けをすることを店のものに言い付けていたという。
当時としては、一見斬新に見える発想も、その裏での地道な「算用」があったからこそ実を結んだのだ。

社会へのまなざし
創意工夫で事業を発展させる「才覚」と堅実な経営を支える「算用」。
その二つが揃えば十分に商売を発展させられると感じるかもしれない。
しかし、商売の基本は人と人を結び価値を生み出してゆくこと。
社会との正しい関わりがなければ、最後は足元をすくわれてしまうのが世の常である。
「始末」という言葉には、商売をする上で大切にするべき社会へのまなざしが込められているのだ。
下村彦右衛門が掲げ、代々受け継がれた「大丸屋」のある標語がある。
それは「先義後利」という言葉。
中国の儒学の祖の一人、荀子が語ったとされる「義を先にして利を後にする者が栄える」という意味を持つ言葉である。
自らの利益ばかりを追うと人を騙してまで儲けようという考えになり、最終的には失敗してしまう。
目先の利益ではなく、人や社会の役に立つことをまず第一に考えること。
そのことによって社会全体が潤い、長い目で見れば自らも豊かになるという意味を持つ言葉である。

「始末」とは、商人が守るべき質素、倹約を表した言葉。
それは商人が日々の暮らしの中で守るべき規範を表した言葉とも言えるだろう。
そこには、ただ倹約し、出費を少なくするという意味だけでなく、その行いによって身を正し、誠実に社会と向き合うというという意味も込められている。
例えば「始末の心」とは、簡単に物を捨てるのではなく、物の命を大切にすることを表す。
物の命を大事にするということは、そこに関わる人も大切にすることにも繋がってゆく。
そして、人を大切にするには、何よりも正直に商売しなければならない。
しかし、ひとたび贅沢に走り、出費が多くなってしまうと大儲けを考える欲が生じてしまい、悪どい商売をすることになる。
そうした行いを戒めるために日々質素、倹約を守ることが大切であると。
「始末」という言葉には、質素、倹約という行いを起点にした社会へのあるべきまなざしが込められているのだ。
実際に下村彦右衛門は、質素であることを家訓として掲げ、決して驕ることなく「先義後利」の精神で商いを継続させてゆく。
そうして常に社会貢献を第一に考え、商いを行なった「大丸屋」は、商人のみならず数多くの人々から信頼を得ていたという。

その信頼を表すひとつのエピソードがある。
1837年に、大坂町奉行所の役人であった大塩平八郎によって、ある反乱が起きる。
それは歴史に残る「大塩平八郎の乱」である。
その事件の背景にあったのは、数年前に起きた大飢饉だった。
その飢饉によって日本全国で合計30万人以上もの人々が飢えで亡くなったと言われている。
大塩平八郎は、そうした状況を憂い、困窮した人々を救うために自らの財産を売り払い、東奔西走しながら貧しい人々に配ってゆく。
だがその行動にも限りがあった。
そんな中、大阪の豪商による少ない米の買い占めが起き、その厳しい現状に拍車をかけたのだ。

そのことに怒り震えた大塩平八郎は、その現状を打ち崩し、飢えにあえぐ民衆を救うために武装蜂起を決意する。
そして、大塩平八郎を中心とした人々が私利私欲を肥やした豪商を襲う反乱を大阪の町で起こしたのが「大塩平八郎の乱」という事件だった。
この事件によって民衆に襲われ、焼かれた富豪は多いと言われる。
だが、このとき「大丸屋」は焼失をまぬがれたという。
それは彼らの一派が「大丸屋」は社会的正義を持った商人だと考えていたからであった。
「大丸は暴利を貪らず、神社仏閣への寄進と貧民の救済に尽くした」と。
このことは、「大丸屋」が大切にした「始末」の精神が人々に届き、信頼という形で実を結んでいたことを教えてくれる。
一見目には見えないようなささやかな行いも人々はしっかりと見届けているのだと。

受け継がれゆく記憶
そうして「大丸屋」の発展を支えた商いの哲学、「才覚・算用・始末」。
その哲学は、決して時代と共に消えてゆくことはなかった。
育まれた哲学は、時代を越え、大阪商人が共有する普遍的な哲学として受け継がれてゆくのである。
その理由は、上から与えられた知識ではなく、人々の対話の中で育まれた哲学だったからなのではないだろうか。
大阪の自由な雰囲気の中で重ねられた、様々な交流や自由闊達な対話。
だからこそ、ひとりひとりが自らの言葉を通して、それぞれの思考を深めることが出来た。
そのことが頭ではなく、多くの人々の心を動かすことに繋がったのではないか。
そうして心を動かされた人々が熱を持って自らの経験を交え、その哲学を語り、その言葉を聞いた人々もまた心を動かされ、その哲学を語り継いでゆく。
そんな幾重もの連鎖があったからこそ、普遍的な哲学として受け継がれていったのだと。

つまりそれは、その哲学の中に、無数の人々の夢や希望、挫折や失敗も含めた生きた心が宿っていたとも言えるだろう。
そして、その生きた心は、大阪に吹く自由な風が育んだのだ。
それだけではない。その風は、商人の哲学のみならず、江戸時代を代表するひとつの文化を生む原動力にもなってゆく。
文化とは、ある時代を生きた無数の人々の想いが重なり合うことで生まれる。
人々が何に喜び、悲しみ、感動していたのか。
そこには、その時代の人々が大切していた価値観が流れているのだ。
つまり文化とは、ある時代の「心」を映し出すものだとも言い換えられるだろう。
そして、その文化の中心となった人々もまた、大阪という町を舞台にそれぞれの物語を紡いでいったのである。
(◼︎ 後編:「曽根崎の森で」へ続く)
- text / photo HAS
Reference :
-
「大阪商人」
- 著者:
- 武光誠
- 出版:
- ちくま新書
-
「水都大阪物語」
- 著者:
- 橋爪紳也
- 出版:
- 藤原書店
-
「商いの精神」
- 著者:
- 西岡義憲
- 編集:
- 大阪府「なにわ塾」
- 出版監修:
- 教育文化研究所
-
「市民大学の誕生」
- 著者:
- 竹田健二
- 出版:
- 大阪大学出版会
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「懐徳堂の至宝」
- 著者:
- 湯浅邦弘
- 出版:
- 大阪大学出版会
-
「日本永代蔵」
- 著者:
- 麻生礒次 / 富士昭雄
- 出版:
- 明治書院
-
「西鶴に学ぶ 貧者の教訓・富者の知恵」
- 著者:
- 中嶋隆
- 出版:
- 創元社
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「上方文化講座・曽根崎心中」
- 著者:
- 大阪市立大学文学研究科「上方文化講座」企画委員会
- 出版:
- 和泉書院
-
「石田梅岩 - 峻厳なる町人道徳家の孤影」
- 著者:
- 森田健司
- 出版:
- かもがわ出版
-
「AD・STUDIES vol.5 2003」
- 発行:
- 財団法人 吉田秀雄記念事業財団
-
text / photo :HAS Magazineは、旅と出会いを重ねながら世界中の美しい物語を紡ぐライフストーリーマガジン。 ひとつひとつの物語を通して、様々な人々の暮らしを灯してゆくことを目指しています。About : www.has-mag.jp/about
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