ウィーンの鬼才画家
エゴン・シーレの物語
エゴン・シーレの物語
Story
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彼の描いた時に異様さを伴うような、躍動的で美しい作品の数々は、今もなお多くの人々の心を捉え続けている。
そんな様々な作品の裏側に隠された、一人の画家の人生の物語を辿ってゆく、「ウィーンの鬼才画家 エゴン・シーレの物語」。
前編の題名は、「新しい芸術家への道」。
今回の物語では、シーレの類まれなる才能を育んだ子供時代の記憶を辿りながら、彼の才能の源泉を紐解いてゆきたい。
- text HAS
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[ 序章 ]ウィーンの鬼才画家 エゴン・シーレの物語
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[ 前編 ]新しい芸術家への道
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[ 後編 ]儚い光の先に
New Artist
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Contents
幼少期からアカデミーまで
絵を描くことに没頭した少年時代
1890年6月12日、ドナウ川沿いにあるオーストリアの町トゥルンでエゴン・シーレは生まれた。 1890年は、世界的に有名な作品「ひまわり」を描いたオランダ出身の画家、フィンセント・ファン・ゴッホの死没した年だ。
後年、ゴッホの作品と出会い、深く感銘を受けたシーレは、自身の生まれた年と重ね合わせ「自分はゴッホの生まれ変わりではないか。」と考えるほど、彼に強い影響を与えることになる。
シーレは、三人兄妹の次男として、度重なる死産と流産を乗り越え誕生した、シーレ家の唯一の男の子として、大切に育てられたという。
母親マリー・シーレが幼少期のエゴン・シーレのことを振り返り「初めて絵を描いたのは、彼が1歳半になったばかりの頃だったわ。」と語っている通り、早熟の天才は、幼くして既に芸術家への道のりを歩み始めたのだった。
そんなシーレの才能を家族も認め、彼の才能がより良い形で結実してゆくことを、誰もが期待し、望んでいた。
しかし、それはあくまで芸術家としての成功ではなく、より良い職業人としての成功であった。
当時トゥルンの駅長として働いていた、父親アドルフが思い描く「手先な器用な息子が技術者として、出世して欲しい。」という期待とシーレの絵に対する想いは、年を重ねるごとに乖離していったことは、想像に難しくない。
実際に、こんなエピソードがある。
芸術に対する情熱が日増しに大きくなっていったシーレがラテン語の勉強を怠って、絵を描きたいと父親にせがんだところ、怒った父親がスケッチブックを取り上げ、ストーブに放り込んで燃やしてしまったというのだ。
その後、家族の意向で様々な学校へシーレを通わせるも、一向に成績は伸びず、かえって勉強への嫌悪感を募らせた。
さらには、規則だらけの学校制度への疎外感も感じるようになっていった。
そのことがより一層、シーレの芸術への想いを大きくしたとも言えるだろう。
しかし、そうした現実は、思いがけない不幸がきっかけとなり、大きく転換してゆくことになる。
父の死とウィーン美術アカデミーへの入学
1904年、シーレが14歳の時、父親が病死したのだ。死因は、元々感染していた梅毒の悪化が原因だったという。
価値観の違いからぶつかり合うことも多かった父と子だが、父を慕っていたシーレにとって、その事実は、大きな喪失感を伴うものだった。
そして、その喪失感を埋めるように、以前にもまして絵に没頭してゆくようになる。
しかし、それは同時に、これまで押し付けられていた勉強から解放され、自由に芸術に向き合うことが出来る大きな機縁となり、彼の芸術家への道が大きく開かれてゆくことになる。
父の死から、二年後の1906年。
ますます落ちゆく成績の末、ついにシーレは学校を落第することになる。
しかし、シーレは、そのことを好機と捉え、当時、難関とされたウィーン美術アカデミーへの進学を挑戦する。
周囲の反対をよそに、アカデミーの合格基準がきわめて厳しかったにも関わらず、形式的な受験勉強をすることなく、自作のポートフォリオを丹念にまとめ、受験に挑んだという。
結果は見事に合格。
なんと当時のアカデミーでは最年少の16歳でウィーン美術アカデミーに入学することになった。
深い悲しみが手繰り寄せた運命の糸に引き寄せられるように、偉大な芸術家への一歩を歩み始めたシーレの人生に、どうしても不思議な命数を感じてしまう。
ウィーン美術アカデミーでの日々と運命の出会い
そうしてシーレが手繰り寄せた運命の先にあったのは、またしても退屈だった。
芸術への高鳴る想いを胸に、意気揚々と門をくぐったウィーン美術アカデミーで行われていたのは、シーレの想い描いていた創造的世界ではなかったのだ。
それは、100年もの間、改訂されることなく続けられて来た、型にはまったカリキュラムが支配する世界だったのだ。
シーレは、そんな学校の在り方に馴染めずに、徐々に学校をさぼるようになる。
しかし、それでもクラスメートと足並みを揃えて学ぶことは難しくなかったというから驚きだ。
当時の教授は、生徒たちに1日1枚のドローイングを描くように指導していたそうだが、シーレが日頃から描いている量に比べると、比べものにもならない量だったのだ。
このエピソードは、彼の絵には、決して天賦の才だけではない、ひたむきで圧倒的な努力が流れていることを私たちに教えてくれる。
そして、1908年、シーレ18歳の時。
そんな退屈な日々を持て余していた彼のもとに、運命を大きく変える出会いが訪れることになる。
芸術家への道を歩み始める
クリムトとの出会いと決意
それは、ウィーンの巨匠 グスタフ・クリムトとの出会いだった。
その年にウィーンで開催された、総合芸術展「クンストシャウ」でクリムトの作品に出会うことになるのだ。
衝撃を受けたシーレは、その後の1年間、多くの時間を割き、クリムトの作品の研究に費やしたという。
そして、その翌年の1909年に開催された、第2回国際「クンストシャウ」では、なんとクリムト直々に出展を依頼されることになる。
その短い間でのシーレの画家としての成長ぶりには、ただただ驚くばかりである。
もちろんクリムトの影響だけでなく、ゴッホの絵画からの影響。
人智学・アントロポゾフィー(科学的・神秘体験を通じて精神世界を研究するという学問であり、アントロポロゾフィーとは「人間の叡智」という意味である)の祖であるルドルフ・シュタイナーの著書から感銘を受け抽象的な表現を目指すようになったこと。
また、真偽は明らかではないが、シーレの友人が演じていた、一風変わった動きを伴うパントマイムが、シーレ独自の躍動感ある身体表現に、インスピレーションを与えたことなど。
様々な経験を重ねてゆく中で、彼独自の表現が生まれていったことは、見逃すことが出来ない。
しかし、展覧会への出展は同時に、シーレの在籍するアカデミーの「生徒は公の場で作品を発表してはならない」という校則に違反することになった。
その事実は、必然的に彼の今後の進路を大きく問うことになる。
既存のアカデミックな枠の中で表現を続けてゆくのか。
それとも退路を断ち、新しい表現を生み出す芸術家として歩んでゆくのか。
そのどちらを選ぶのかということを。
そして、時を同じくして、シーレは、志を共有する仲間とともに「新芸術集団」というアート集団を結成する。
その結成の志として、シーレはこう語っている。
「芸術は、つねに同じものだ。新しい芸術などというものは存在しない。新しい芸術家がいるだけだ。しかし、その数は非常に少ない。新しい芸術家は、必然的に自分自身であるべきだ。彼は創造者でなければならず、いかなるものも介在させず、過去から引き継がれたものを用いず、まったく独力で基礎を築き上げなければならない。そういう人間だけが、新しい芸術家なのだ。ぼくらの誰もが、自分自身であることを望む。」
(著者 ジャン=ルイ・ガイユマン 監修 千足伸行 翻訳 遠藤ゆかり 『エゴン・シーレ 傷を負ったナルシス』 創元社より )
そんな芸術へのほとばしる想いを胸に、シーレは退学を決意したのだった。
華々しい幕開け、そして田舎暮らし
退学後、19歳となったシーレは、本格的に芸術家として、歩み始める。
1909年末には、画商ピスコにより、開催された展覧会で「新芸術集団」のリーダーとして、シーレの作品は大々的に展示される。
そして、その展覧会をきっかけに、シーレは、パトロンとなる幾人かの支持者と出会うことになる。
経済的安定には、まだまだほど遠かったものの、結果的には退学という決断が芸術家としての良い始まりになったのだった。
しかし、そこからの道のりは、決して順風満帆という訳にはいかなかった。
それは、いくつかのエピソードが物語っている。
亡くなった父の後見人である、叔父ツィハツェックが甥であるシーレには、仕事がないと早合点し、軍隊に入れようと猛烈に働きかけたこと。
「新芸術家集団」の旗手としての野心が、結果的にオーストリアの前衛芸術家たちとの諍いの火種となり、対立を招いたこと。
そして、その他に自身の私生活の問題など、様々なことが重なり合い、シーレは、ウィーンという街に対し、強い不満を抱くようになったというのだ。
その時に友人へ宛てた手紙で、シーレはこう綴っている。
「ここはなんて醜い場所なんだ、誰もが妬みと欺きに満ちている。ウィーンは闇で覆われてしまった。この町は真っ暗だ。」
(著者 ジェーン・カリアー 翻訳/編集 和田京子 『エゴン・シーレ ドローイング 水彩画集』 新潮社より )
そんな募る不満から逃れるように、シーレは創作の拠点をウィーンから田舎町のクルマウに移すことになる。
母の生まれ故郷であったクルマウという町には、以前から愛着を抱いてたという。栄枯盛衰の歴史を感じさせる古い街並みと、今まさに衰えゆく町の姿に、美しい哀愁を感じ、愛情を込めて「死の町」と呼んでいたという。
だが、田舎暮らしの穏やかな日々は、長くは続かなかった。
小さな町では、あまりに目立つ奇抜な格好に身を包み、不遜な物言いをしていたシーレに対し、町の人々が不信感を募らせるようになるのだ。
さらに、自身の庭先でヌードモデルを描いていたことが発覚。
保守的な町において、その事実は致命的で、大問題にまで発展してしまう。
最終的には、クルマウを去らなければならなくなってしまうのだった。
その後、一旦はウィーンに戻ったものの、都会から離れた穏やかな場所への想いは、止むことはなかった。
そして、新たな地を求め、ノイレングバッハという小さな村に、引っ越すことを決める。
まさか、その安息を手にするための新たな場所で、自らの価値観を揺るがすような大きな事件に巻き込まれることを、シーレ自身も知るはずもなく。
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Reference :
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「エゴン・シーレ 傷を負ったナルシス」
- 著者:
- ジャン=ルイ・ガイユマン
- 監修:
- 千足伸行
- 翻訳:
- 遠藤ゆかり
- 出版:
- 創元社
-
「エゴン・シーレ ドローイング 水彩画集」
- 著者:
- ジェーン・カリアー
- 翻訳・編集:
- 和田京子
- 出版:
- 新潮社
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text :HAS Magazineは、旅と出会いを重ねながら、それぞれの光に出会う、ライフストーリーマガジン。 世界中の美しい物語を届けてゆくことで、一人一人の旅路を灯してゆくことを目指し、始まりました。About : www.has-mag.jp/about
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