水の都・大阪の
知と美の記憶を求めて
知と美の記憶を求めて
of Osaka

of Osaka
水の都・大阪。
かつて大阪は「アドリア海の女王」とも称されたイタリアが誇る水の都「ヴェネツィア」を見立て「東洋のベニス」と謳われた。
都市の中を網の目のように張り巡らされた水路。
その水路を人々が行き交いながら描かれる美しい都市の風景。
それはまさに日本が世界に誇る「水の都」であった。
そんな水の都・大阪の多様な物語を辿りながら、大阪の町に息づく「知」と「美」の記憶を紐解いてゆく「水の都・大阪の知と美の記憶を求めて」。
最終話となる「第5章」のタイトルは、「映し出された記憶」。
今回の物語では、大阪の人々が育んだ町人文化の中心を担った、もう一人の作家の物語を辿ってゆく。
- text / photo HAS
Memories
Memories
Contents

もう一人の作家
歓楽の王国へ
水の都・大阪が紡いだ「知」の記憶。
その「知」が育まれた背景をより深く理解するために、その時代に育まれた文化を辿り始めた。
そして、その文化の代表的な作家の一人、近松門左衛門の歩みを紐解いてゆくと、決して杓子定規ではない、あるひとつの美学に辿り着いた。
そんな彼は、大阪を拠点に様々な町人の暮らしから着想を得ながら、数々の作品を生み出した。
人々が自由に生き、活気に満ちた江戸時代の大阪の町は、商人だけでなく様々な作家もまた惹きつけたのである。
当時の大阪を見た「ケンプェル」という長崎のオランダ商館の軍医の旅行記に、ある文章が残されている。

「人口が多いのに、生活が容易であり、毎日のように演劇が行われ、他郷の金持ちや旅行者が集まる。人々はここを歓楽の王国と呼んでいるという。」
まさに大阪は、多くの人々を魅了する「歓楽の王国」であったのだ。
そして、そんな都市の風景をまた別の視点から見つめる一人の人物がいた。
彼の名は「井原西鶴」。
近松門左衛門と同様に元禄文化を代表する作家の一人である。
彼は、町人の暮らしを題材にした「浮世草子」と言う小説のジャンルを生み出し、新たな価値観を大阪の町に届けたのだ。
そんな彼が歩んだ物語を辿りながら、大阪の「美」の記憶をさらに深く辿ってゆきたい。

謎に包まれた生涯
1642年頃、井原西鶴は、大阪で生まれたと言われている。
だがその生涯については未だ不明なことが多い。
現在の和歌山と三重の間にあった紀伊国の中津村が出身地であるとも語られる。
また西鶴は作家としてのペンネームであり、本名は平山藤五であったとも言われる。だがしかし、その真偽も謎に包まれているのだ。
そんな彼の両親についても、ほとんど何も分かっていないという。
ただ彼の代表作のひとつ「好色一代男」の作中で垣間見える教養から大阪の裕福な商人の子だったとも考えられている。
彼もまた近松門左衛門と同様、安定的な立場を自ら捨て、不安定な芸の世界に自ら身を置いていったのである。

その「好色一代男」とは、西鶴のデビュー作となった小説。
この作品は、ある大金持ちの父親と芸者の母親の間に生まれた架空の主人公「世之介」の一生を描いた小説である。
西鶴は、この作品を通して、日本で初めて町人の暮らしを舞台にした小説「浮世草子」という新たなジャンルを生み出したのだ。
7歳にして恋を知り、あらん限りの恋愛経験を経て、60歳に至り女性だけが住むと言われる架空の島「女護ヶ島」に出航し、最後は消息不明になる。
笑ってしまうほど愚直なまでに恋に生き、最後の最後まで女性を追い求めた男のウィットに富んだ物語。
その生涯で関係を持った女性は、なんと3000人以上という破天荒な生き様を描いた作品であった。

浮世草子への道
小説家への歩み
そんな「好色一代男」を発表したのは、西鶴が40歳の時。
それまで彼は、俳諧師として生活をしていたという。
15歳にして俳句を始め、20代半ばにして俳句を人に指導する立場である「宗匠」となる。
そして30代になると、一日に大量の俳句を作る「矢数俳諧」という独創的な企画を発案。なんと2万3500句もの句を一日で読むという尋常ではない興行も手がけたという。
それゆえ西鶴のその異端な行動を批判する者もいた。
だが、彼はそれすらも逆手にとり、自らの俳句は、日本ではなく「オランダ流」だと言ってのけるほどの自由さを持っていたのだ。

しかし、そんな西鶴のもとにある不幸が訪れる。
彼の妻が病にかかり亡くなってしまったのだ。25歳の若さであった。
西鶴34歳、幼い子供2人とまだ乳飲み子だった1人の赤ん坊を残して。
その内の一人の子供は、盲目の娘であったとも言われている。
突然の不幸によって、彼が途方に暮れたであろうことは想像に難しくない。
だがそんな西鶴にある一つの転機が訪れる。
とある無名の出版社との出会いをきっかけに俳諧師から小説家へと転身するのである。
そうして生み出されたのが「好色一代男」だったのだ。

彼の描いた主人公の「世之介」は、世間の常識や倫理に捉われず、自らの欲望に忠実に自由に生きた。
当時の人々の価値観の背景にあったのは、仏教や儒教といった思想。
「世之介」が追い求めた愛欲などは罪であり、悪だと断罪されていたのだ。
そして当時の社会は、武士や農民、商人、貴族といった身分制度が定められた時代。身分差別は根強く、多くの人々の心の中には鬱屈したものがあっただろう。
そんな社会をあざ笑うかのごとく、どこか憎めない主人公が面白おかしく、人間臭く自由に生きる様は、多くの人々にとって胸のすく思いだったに違いない。
事実「好色一代男」の人気は大阪のみならず江戸にまで及び、大流行していったのだ。

永遠の蔵戸を開く
その後も町人の愛欲を主題にした「好色本」を次々と生み出してゆくのだが、46歳の時に新たな境地を切り開く。
北は山形県から南は長崎まで日本各地の豪商への取材を重ねた末に、日本で初めての経済小説「日本永代蔵」を発表する。
この本の趣旨は大掴みに言えば「いかにお金持ちになるか」ということ。
登場する人物は、貧しい人からお金持ちまで多種多様。
幾つもの短編の中で個性豊かな登場人物が時に成功、失敗しながら、ある人は大金持ちになり、ある人は貧乏人になってしまう。
だが決して重々しい雰囲気ではなく、どちらに転んでもどこか面白おかしく描かれ、時折はっと気付かされるような商いの教訓が書かれていた。

そこにはまさに大阪商人の「才覚」「算用」「始末」が巧みに物語として落とし込まれていたのだ。
「現金切売り・掛値なし」の商売で大成功した「越後屋」を題材にした話では、商売の仕掛けを紐解きながら、儲ける商いの裏側をわかりやすく伝えた。
また別の物語では、「浪費と情報収集なしの見込みによる商売は家を滅ぼす」という情報収集の大切さを伝えた。
さらに「非現実的な夢をもたず、それぞれの仕事に全力で尽くすことが成功の秘訣である」とも「人としての道を守り、神や仏の教えに従って商売をすべきだ」とも書き、至極真っ当で、守るべき社会道徳的な考えも織り交ぜられていた。

とは言え真面目に、誠実に働くべきというような一般常識だけは決して語らない。
「ただ金が金をためる世の中である」そんな夢も希望のないようなことを書きながらも、一方で「生・老・病・死・苦」は決してお金では買えないとも書き、どんなにお金があっても「あの世では役に立たない」とも言い、かと思えばやはり「世の中でお金にまさる宝があるか」とも書く。
矛盾する人間社会を否定も肯定せず、そのまま呑み込んでしまうような独自の世界観の中で物語が描かれていたのだ。
それは「好色一代男」が愛欲を肯定したかのように、時に否定されてしまいがちなお金儲けを真正面から捉え、肯定的に捉えた物語であった。
それはまさに、杓子定規ではないお金儲けの美学を描いた物語であるとも言えるのではないだろうか。
そして、そのあけすけな気持ち良さと物語の面白さ、深さがまたしても多くの人々の心を掴み、江戸時代を通して読み継がれる一世を風靡する作品となったのである。

西鶴の作品でもっとも残存部数が多いものは「日本永代蔵」だという。
その事実は、江戸時代の人々がいかにこの作品に思いを寄せていたかを物語るのではないだろうか。
この本を読んだ親が子供たちに読ませたいと思い、親から子へと代々受け継がれていったのだろう。
だからこそ本は残された。
そして、この本は、これまで漠然と人々の心の中にあった様々な商いの教えを初めて体系化したものとも言えるだろう。
西鶴の感性を通して紡がれた物語が多くの人々の心の中に息づき、それぞれの言葉を耕していった。
そうして西鶴の作品によって言葉を育んだ人々が思考と対話を重ねてゆくことで、大阪商人の「知」の記憶を普遍的なものへと大きく育んでいったのではないだろうか。
それはつまり、近松門左衛門が人形浄瑠璃を通して、新たな価値観と思考を届けたように、西鶴もまた多くの人々の心の中に新たな価値観と言葉を届けていったのだ。

水の都・大阪の記憶
映し出された文化
「水の都・大阪」が紡いだ「知」の記憶。
都市の記憶を紐解きながら、その記憶の源泉を辿ってゆくと、江戸時代に大阪の町で生きた、ある二人の作家が紡いだ美学に辿り着いた。
一人は、人形浄瑠璃を通して、ままならぬ恋の物語を描いた「近松門左衛門」。
もう一人は、浮世草子を通して、日本初の経済小説を描いた「井原西鶴」
そんなこの二人には、ある一つの共通点がある。
それは、決して杓子定規なものの見方をしなかったということだ。
当時流布していた道徳や一般常識、倫理などはお構いなしに、人間の愛や欲を真正面から捉え、そこに流れる本質的な価値を見事にすくい上げた。
それは人間の持つ矛盾や愚かさも肯定し、そこから一歩先へと考えを深めたのだ。

それも決して固苦しくなく、誰もがわかる言葉で、時に面白おかしく、時に悲しく、時に美しく。
だからこそ身分の垣根を越え、多くの人々の心を動かしたのだろう。
また二人は、その生涯を多様な境界を行き来しながら生きた。
近松門左衛門は、武士の出でありながら、芸能という世界に飛び込み、辛酸を舐めがらも作家としての地位を確立する。
井原西鶴は、裕福な商人の出でありながら俳諧師となり、最後は小説家として花を開かせた。
現代で考えてみても彼らの生き方の自由さは際立っている。
だが身分制度が固定化された江戸時代の中で、彼らの生き方は尋常ではなかっただろう。
そんな彼らだからこそ、常識に捉われない自由な物語を紡ぐことが出来たのだ。

だがしかし、それは決して二人の才能だけによって成し得たことではない。
彼らのまなざしの先には、いつも大阪で暮らす町人たちの姿があったのだ。
そうした人々に出会い、言葉を交わし、交流を重ねてゆくことで彼らの作品が生まれたのだ。
そして、もうひとつ忘れてはならないのは、そんな彼らが紡いだ新たな価値観を受け入れる人々が大阪の町に数多くいたということ。
それぞれの作品が大流行を博したのは、作品自体の魅力だけでなく、その素晴らしさに共感出来る受け手が数多くいたことも大きな理由のひとつだと思うのだ。
むしろ新たな価値観は、作品によってもたらされたものではなく、気付かされたという方が正しいのかもしれない。
新たな時代の変化の中で、既に多くの人々の心の中に漠然とあった新たな価値観を彼らが作品を通して表現することで、その価値観に確かな輪郭を与えたのだと。
そのことによって多くの人々の価値観が変わり、新たな文化と普遍的な「知」の記憶を生む原動力となっていたのではないだろうか。
彼らは、当時の大阪の人々の映し鏡の役割を果たしていたのだと。

水の都に宿る美学
そして、西鶴が「日本永代蔵」を発表した13年後には、「懐徳堂」という学問所が大坂の商人たちの手によって設立される。
京都から三宅石庵という儒学者が迎えられ、身分や貧富に関わらず平等に学ぶことが出来る画期的な学問所が生まれたのだ。
その後も「町人の哲学」とも称される「心学」を教える「明誠舎」という学問所や西洋の学問「蘭学」を学ぶ「適塾」という学問所が開かれてゆく。
「心学」は、石田梅岩によって創始された学問で「道徳と経済の両立」の理念を日本で初めて広めたと言われる。
元パナソニック創業者・松下幸之助や京セラ創業者・稲盛和夫など、心学の影響を受けた人物は枚挙にいとまがない。
また「適塾」は、慶應義塾大学を創設し、「学問のすゝめ」という自著を残した福沢諭吉が学んだ学問所であったことでも知られる場所である。

「商人の町」としてイメージされることの多い大阪だが、江戸時代において大阪は多様な学問所が集まる「学問の町」としての顔も持つようになるのである。
その多くは、町人が自主的に設立したもので、身分、男女の差もなく学ぶことが出来たのだ。
そうして育まれた環境の中で多くの商人たちが交流を重ねてゆくことで、それぞれの心の中にあった知が結晶となってゆき、普遍的な「知」の記憶へと高められていったのだろう。
そして、その「知」を育む源泉となったのが、江戸時代の大阪が生んだ町人を中心とした文化であり、その文化の中心を担った近松門左衛門や井原西鶴が作り上げた作品で描かれた杓子定規ではない美学であったのだと。
その美学とは、表面的な美しさを描くものでも、高尚な思想を語るものでもない。
時に愚かで、時に泥臭く、時に純粋な、矛盾する人間の有り様をそのまま包み込んでしまうような美学。

それは人と人を結んでゆくことを生業とした、商人の町・大阪だからこそ紡ぐことが出来た美学ではないだろうか。
当然ながら、お金を儲けなければ商売は成立しない。
しかし、お金は時に欲を刺激し、人を翻弄し、様々な人間模様を生み出してゆく。
そんな世界の中で多様な人々と付き合いながら、いかに生きていくかという切実な課題が常に彼らの中にあった。
だからこそ人と人が関わり合う上での指針となる哲学が求められたのだと。
それは、人と人をより良く結んでゆくための関係性の美学であった。

お笑いの街とも言われる、大阪の街。
時に自らの格好悪さをもさらけ出して、その場を和ませ、より良い関係性を築いてゆく。
矛盾を否定するのではなく、矛盾を矛盾のままで笑い飛ばしてしまう。
そんな人間くさいやり取りの奥底には、かつて人々が紡いだ美学が流れていたのだ。
目覚ましい技術の興隆の中で、私たちの時代のコミュニケーションは、江戸時代とは比べられないほど多様に、複雑になっている。
その規模も決してひとつの国に収まらず、多様な国々の人々と交流を重ねてゆくことが、今後さらに求められてゆくことだろう。
その交流は、時に多様な価値観や思想が入り混じり、白と黒を分かつだけでは解決し得ない問題を生むこともあるかもしれない。
その解決の糸口は、矛盾を矛盾のままに飲み込みながら、決して杓子定規ではない美学で新たな関係性を創造してゆく、そんな力が必要になるのではないだろうか。
それは、かつて江戸時代の大阪の人々が、新たな美学をもとに普遍的な「知」の記憶を育んでいったように。
「水の都・大阪」が紡いだ都市の記憶。
かつてこの都市に流れていた幾つもの水路は消えてしまったが、人々が紡いだ「知」と「美」の記憶は、今もなおこの都市を流れ続けているのだ。
( ■ 完 :「水の都・大阪の知と美の記憶を求めて」)
- text / photo HAS
Reference :
-
「大阪商人」
- 著者:
- 武光誠
- 出版:
- ちくま新書
-
「水都大阪物語」
- 著者:
- 橋爪紳也
- 出版:
- 藤原書店
-
「商いの精神」
- 著者:
- 西岡義憲
- 編集:
- 大阪府「なにわ塾」
- 出版監修:
- 教育文化研究所
-
「市民大学の誕生」
- 著者:
- 竹田健二
- 出版:
- 大阪大学出版会
-
「懐徳堂の至宝」
- 著者:
- 湯浅邦弘
- 出版:
- 大阪大学出版会
-
「日本永代蔵」
- 著者:
- 麻生礒次 / 富士昭雄
- 出版:
- 明治書院
-
「西鶴に学ぶ 貧者の教訓・富者の知恵」
- 著者:
- 中嶋隆
- 出版:
- 創元社
-
「上方文化講座・曽根崎心中」
- 著者:
- 大阪市立大学文学研究科「上方文化講座」企画委員会
- 出版:
- 和泉書院
-
「石田梅岩 - 峻厳なる町人道徳家の孤影」
- 著者:
- 森田健司
- 出版:
- かもがわ出版
-
「AD・STUDIES vol.5 2003」
- 発行:
- 財団法人 吉田秀雄記念事業財団
-
text / photo :HASは、多様な美しい物語を紡いでゆくことで「物語のある暮らしを提案する」ライフストーリーブランド。ライフストーリーマガジン「HAS Magazine」のプロデュース、デザインスタジオ「HAS Couture」を手掛ける。