神戸・北野町と幾つもの
夢を追って
夢を追って
Kitano

Kitano
海と山に囲まれた港町・神戸。
街の背には、六甲の山々が並び立ち、港からは、穏やかな瀬戸内の海風が吹き込んでくる。
古くから港町として栄えたこの土地は、様々な国々から多様な文化や人々を受け入れ、多くの人々がこの地に夢を描いた。
そして、その歩みは、独自の文化を生み出し、神戸の街を国際都市として発展させてゆくことになる。
そんな神戸の街を訪ねてゆくと、あるひとつの町の姿に出会った。
それは、神戸の山手に位置する北野町。
街と海を見渡すように立つ風見鶏をシンボルに、幾つもの異人館とその間を縫うようにして伸びる坂道が独自の美しい景観を描く町だ。
そして、この町に流れる物語に耳を澄ましてゆくと、この場所には、世界でもここにしかない独自の多文化共生の暮らしが育まれていた。
それは、多様な文化や思想、人種が行き交う、今の時代を生きる私たちにとって、これからの未来を描いてゆくために、大切な手がかりとなる姿でもあった。
そんな北野町に根付く、独自の多文化共生の姿を辿ってゆくために、神戸、そして北野町に流れる多様な物語を紡いでゆきたい。
- text / photo HAS
神戸・北野町
北野町は、神戸の街の山手にある閑静な住宅地域。
神戸の開港と共に、この地に暮らし始めた外国人の旧宅が今なお街の中に点在し、様々な異人館とその間を縫うようにして伸びる坂道が独自の美しい風景を紡ぎ出している。
特に街と海を見渡すように立つ風見鶏をシンボルとしたエリアは、観光地としても名高く、毎年多くの観光客で賑わいを見せている。
路地を曲がり、小道をたどれば思いがけない風景との出会いがあり、異国の人々の暮らしの息づきと匂いを感じることが出来る、異国情緒漂うエリアである。
by Letters
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Contents

失われゆく記憶
時代の光と影
1900年の居留地の返還から50年近くの時が過ぎていた。
二度に渡る世界大戦を乗り越えた日本は、1950年代中頃から高度経済成長に突入する。
飛躍的な技術の革新、そして大規模な産業の発展を通して、いまだかつてない経済成長を果たす。
その成長は「東洋の奇跡」とも呼ばれた。
だがそんな成長の裏側では、公害をはじめとした様々な社会問題を引き起こしたのだ。
時代の光と影がはっきりと社会に映し出されていたのである。
そして、その影響は、神戸の街にも確実に忍びよって来たのである。
特に多くの異人館が立ち並ぶ、北野町への影響は大きかった。

都心部の近くに位置する街の立地がきっかけとなった。
北野町では、1950年代中頃から風俗向けホテルが建ち始め、静かな住宅地であった街並みが一変。
さらに1960年代中頃には、その変化に追い討ちをかけるように、マンションの建設ラッシュが続くことに。
その一連の変化によって、残された多くの異人館が建て替えや老朽化によって失われてゆくのである。
当時は、所有者や住民も、異人館は保存するべきものとの認識は少なかったという。
多くの異人館は、定期的なペンキの塗り直しなど、多くの維持費用が必要だったのだ。そのため所有者の経済的負担は非常に大きかった。
そのため経済的に負担になる異人館をお荷物と思っていた所有者も多かった。
現在のように助成金制度などもなく、所有者に経済的負担を強いていた時代でもあったのだ。
そんな様々な要因が重なり合い、多様な人々の夢によって育まれた独自の街並みが時代と共に姿を消そうとしていたのだ。

届けられた手紙
だがその消えかけた灯は決して消えることはなかったのだ。
失われつつある街並みに光を灯すように、北野町を愛する人々を中心に異人館を保存する運動が始まる。
そのきっかけは、当時の神戸市長のもとに届いた、ある一通の手紙から始まる。
それは今から遡ること40年前の7月のとある日。
照りつける夏の日差しに新緑の青葉が輝く、夏の日のことであった。
差出人は、坂本勝比古という一人の男。
その男を中心に、当時の東京大学、早稲田大学、都立大学に所属する著名な学者たちの署名が添えられていた。
内容は、旧ハッサム邸という異人館の保存の要望書であった。
手紙の内容は、こう綴られていた。

「北野寮(旧ハッサム邸)は、神戸市のみならず全国的にみても、きわめて貴重な明治中期の洋風住宅の好例と考えられます。この記念物が破壊されるのを座視するのは、建築家としてまことにしのびないものがあります。」
と保存に対し、神戸市の努力を求めるものであった。
そして、この要望書を作り上げるために中心となった坂本という人物は、署名にあったような学者ではなく、一人の神戸市職員であったのだ。
後に「異人館博士」とも呼ばれ、神戸・北野の異人館を中心に近代建築の保存・研究に尽力し、神戸芸術工科大名誉教授をも務めることになるのだが、当時は無名の一人の公務員。

そんな彼が、誰の依頼でもなく自らの意志で、たった一人で動き始め、作り上げたのが、この手紙であった。
そして、この一通の手紙が北野町の街並みを守る発端となってゆくのである。
しかし、なぜ彼はそんな手紙を生み出したのだろうか。
そんな彼の想いを辿ってゆくと、またひとつの夢の記憶が流れていたのである。

手紙の主の物語
異国の地での原風景
手紙の主である坂本氏は、1927年、中国の山東半島に位置する青島(チンタオ)で生まれる。
その当時、青島は日本が支配していたのだが、もともとはドイツの租借地であった。
1898年に、中国山東省で起きたドイツ人宣教師の殺害事件をきっかけに、ドイツの租借地となり、開港後の神戸のような西洋風な街並みが作り上げられていた。
その後、第一次世界大戦での日本のドイツへの勝利により、日本領となる。
だが第二次世界大戦の敗戦、そして終戦によって中国に返還。
そのため終戦とともに帰国せざる負えなくなり、父の故郷・高知へと移住する。

その後、現在の神戸大学にあたる大学の工学部への入学をきっかけに、神戸にやってくる。
当時は、戦争の爪痕がまだまだ数多く残る、戦後の時代。
そのため戦災復興の仕事が忙しかった。
大学で建築を学んでいたこともあり、卒業後も神戸にとどまることに。
そして、時代は戦災復興から高度経済成長へと大きく移り変わってゆく。
そんな変わりゆく時代の中で、彼のまなざしの先にあった街並みもまた大きく変化してゆくのである。
経済の発展という名のもとに、新しいものが次々と生み出されては、消えてゆく時代。
その時代の流れの中に、北野町もまた巻き込まれていったのだ。
終戦直後は、200棟近くあった異人館が次々に姿を消してゆくのを、彼は目の当たりにすることになるのだ。

生まれ故郷・青島で暮らした影響からか、洋館にはもともと特別な思い入れや興味があったという。
そのため彼は、以前から様々な異人館に足を運んでは、スケッチをしていた。
しかし、そのスケッチをしていた建物も突如として消えてしまう。
そうした光景を何度も目にするにつれ、 「これは見過ごしてよいものではない」という危機感が彼の中に芽生えるようになる。
そして、ある一つの異人館との出会いがその想いを決定的なものに変えてゆく。

ある異人館との出会い
その異人館の名は、「ハッサム邸」。
1902年に、イギリス人貿易商であったハッサムによって建てられたことから、その名を付けられた。
その後、時を経て持ち主であるハッサムの手から離れ、当時は、神戸女子短期大学の寮として使われていたいう。
この異人館を設計したのは、アレクサンダー・ネルソン・ハンセルというイギリス人建築家。
彼は、R・I・B・A(Royal Institute of British Architects)というイギリス王室が認めた権威ある会員の称号を持つ建築家であった。
当時日本において、同じ資格を持つ外国人建築家は、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルのみ。

コンドルは、日本建築界の父とまで称された人物である。
彼は、現在も東京に残る、丸の内エリアのシンボルとも言える洋風建築「三菱一号館」を設計したことでも知られている。
また教育者としても功績を残し、教え子には東京駅を設計した辰野金吾、京都国立博物館を設計した片山東熊など、明治を代表する建築家を輩出した。
まさに名実ともに押しも押されぬ、一流の建築家であった。
そんなジョサイア・コンドルと肩を並べていたのが、神戸北野の「ハッサム邸」を手がけた建築家ハンセルだったのだ。
京都の平安女学院に今も残る、美しい赤煉瓦の校舎もハンセルの手によるもの。
ハンセルもまた一流の腕を持つ、正真正銘の建築家であったのだ。

北野の街を歩きながら、様々な異人館のスケッチを重ねてゆく中で、坂本氏はとりわけハンセルが設計した「ハッサム邸」の意匠に深く感銘を受ける。
そして、その建築との出会いが彼の中に生まれつつあった、失われゆく異人館への想いをより明確なものにしたのだ。
ただ当時の坂本氏は、神戸市の一人の職員であり、大きな後ろ盾があったわけでもない。また広く世間に説得力をもたらすことが出来るような分かりやすい肩書きもなかった。
当然ながら、当時はインターネットもなく個人での情報発信の難しさは、今とは比べものにならないだろう。
だがしかし、ただ街を愛する一人の人間として、誰に頼まれるでもなく、自らの想いを信じて、たった一人で異人館の保存運動へと歩み始めるのである。

手紙が紡いだ記憶
たった一人の歩み
保存運動へと歩み始めた坂本氏であったが、保存といってもただ個人が掛け合っただけでは、簡単には理解されないだろうことも分かっていた。
そこで彼が考えたのは、各大学(東京大学、早稲田大学、都立大学など)の建築史学会を代表する教授の署名を添え「建築保存要望書」を作り、神戸市に手紙を送ることであった。
そして、彼は各教授に掛け合い、それぞれの署名を得ることに成功する。
そうした過程を経て、自らの想いを添え、その要望書を神戸市長のもとに送ったのである。

そうしてたった一人の手紙から始まった保存活動だったが、大きな追い風が彼のもとに訪れる。
当時の新聞を中心した報道機関は、彼の異人館の保存の運動を受けて、その運動を非常に好意的に発信してくれたという。
そのどれもが坂本氏への活動への賛同と異人館は大事な文化遺産であるという報道だったのだ。
こうした一連の報道は、当時の市長の気持ちに強く働きかける、大きなきっかけとなった。
そしてついに彼の想いは実を結び、神戸市は、その要望書を受け、本格的な保存活動へと動き出すことになる。
神戸市は、当時の「ハッサム邸」の所有者であったイスラム教寺院と交渉し、神戸市に無償で寄付するとの申し出を受けるに至った。
さらにその申し出を受け、神戸市は移築保存を決め、現兵庫県庁の北に位置する庭園・相楽園に移築を行ったのである。

響き合う物語
この異人館保存への動きは、神戸のみならず日本各地でも少なからぬ影響を与えた。
東京丸の内の三菱赤煉瓦一号館、帝国ホテルなども神戸の異人館を例にした要望書によって、その保存の価値を示すことになった。
そしてまた、この事実は行政機関に異人館の文化財としての価値を認識させただけでなく、神戸市民にもその認識と理解を広げる大きなきっかけとなったのである。
その後、神戸市は、1975年に北野・山本地区の詳細な調査を行い、1978年には、神戸市都市景観条例が制定される。
1980年には、「重要伝統建造物群保存地区」に選定される。

1878年の神戸の開港をきっかけとして始まった、多くの日本人と異国人の交流。そして、それぞれの夢の中で育まれた、多様な人々が共生する独自の文化。
そうした文化を背景にして生まれた街並みは、まさにその文化の映し鏡であったのではないだろうか。
だからこそ街並みの喪失は、その土地の記憶の喪失であり、そこで育まれた文化の喪失でもあるとも言えるのではないか。
そう考えてゆくと、様々な人々の夢によって育まれた、独自の共生の記憶は、風前の灯の中で、たった一人の男が描いた夢によって繋ぎ止められたのだ。
そして、その歩みは確実に未来の灯となり、この街の景色を紡いでいったのである。

風見鶏が見つめる先に
神戸北野町に息づく、多様な文化が混じり合う独自の「多文化共生」の姿。
そうした文化が生まれた背景を辿るために、この地に眠る幾つもの記憶を紐解いていった。
するとそこには、様々な幸運が重なり合い生まれた「雑居地」という場所がその始まりの記憶として流れていた。
その場所では、日本人と異国人が共に暮らし、互いに生活の息づきと匂いを感じながら、多様な文化が育まれていった。
その環境こそが、この地に独自の「多文化共生」を育む大きな要因となったのは、間違いないだろう。

さらに加えるのであれば、多様な宗教が共存する受け皿として、神道を祀る北野天満宮があったことも、その理由のひとつではないだろうか。
森羅万象、あらゆる物の中に神を見出すという神道の思想。
それは、多様な宗教が争うことなく、手を取り合うという独自の文化を育む下地となったに違いない。
だがしかし、決してそれだけが理由ではないとも思うのだ。
この地の記憶を紐解いてゆく中で出会った、様々な人々が紡いだ幾つもの夢。
そして、その中で巡り逢った、一人の異国人と日本人の物語。
それぞれの物語は、誰に頼まれるのでもなく、自らの想いで歩み始め、育まれた夢によって紡がれていた。
そしてまた、それぞれの夢の中に流れていたのは、途方もない大きな想いでは決してなく、ただ自らが暮らす街を大切に想い、愛するという想いであったのだ。

神戸という街を舞台に、様々な人々が多様な価値観を持ち寄り、重ねられた交流。
その中では、当然のごとく、お互いの持つ価値観や文化の中で相容れないことも星の数ほどあったのではないだろうか。
それは「雑居地」という特別な環境や日本文化の根底に流れる、多様性を享受する「神道の教え」を持ってしても避けることは難しいだろう。
だが、そうしたいくつかのすれ違いがあったとしても、ひとえに前を向き、共に文化を育むことが出来たのは、「ただ神戸という街を愛する」というひとつの想いにおいては、決してすれ違うことなく、分かち合うことが出来たからではないだろうか。
そして、そうした想いを育んだのは、一人一人の夢の先に描かれた美しい街並みにあったのではないか。
今回取り上げた二人だけでなく、この地で暮らした人々の記憶を辿ってゆくと、様々な人々が自らの想いを多様な表現を通して、街に残して来た事実を知ることができる。

開港というきっかけにより、一度白紙となった場所だからこそ、一人一人の市民がより深く街に関わることが出来、自らを表現することが出来た。
その関わりの深さが土地への愛着を育み、より良い街を作り上げる想いを育み、美しい街並みが作り上げられた。
そして、そうして紡がれた想いの先に、アレキサンダー・キャメロン・シムという異国人の夢と坂本勝比古という日本人の夢が生まれたのだと。
「多文化共生」という言葉。
それはともすると高い理想を掲げた言葉のように感じてしまう。
どれだけ言葉を尽くして、多様な文化を理解し、共存することの大切さを語ったとしても、その事実を深く理解することは、誰にとっても難しい。

しかし、その本質は、実はとても身近な当たり前の暮らしの中にこそ流れているのではないだろうか。
それは、ただ自らの足もとに耳に澄まし、その土地、その場所の記憶に耳を澄まし、その街の魅力に触れ、自らが住む街を愛してゆくこと。
そして、他でもない自分が主人公となり、それぞれが街に自らの想いを表現してゆく。
その積み重ねの先にこそ、本当の意味での多文化共生が育まれてゆくような気がするのだ。
むしろ本当の多文化共生とは、広く世界を渡り歩くことや異なる言語を理解することの中ではなく、自らの足元を深く愛することから始まってゆくのかもしれない。
多様な人々がそれぞれの夢を描き、美しい街並みを育んでいった神戸・北野の街のように。■
- text / photo HAS
Reference :
-
「神戸学」
- 監修:
- 崎山 昌廣
- 編集:
- 神戸新聞総合出版センター
-
「居留地の街から―近代神戸の歴史探究」
- 編集:
- 神戸外国人居留地研究会
- 出版:
- 神戸新聞総合印刷
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「神戸っ子のこうべ考」
- 編集:
- 甲南大学総合科目神戸っ子のこうべ考
- 出版:
- 神戸新聞総合出版センター
-
「居留地の窓から : 世界・アジアの中の近代神戸」
- 著者:
- 神戸外国人居留地研究会
-
「北野『雑居地』ものがたり」
- 発行:
- こうべ北野町山本通伝統的建造物保存会
-
text / photo :HASは、多様な美しい物語を通して「物語のある暮らしを提案する」ライフストーリーブランド。ライフストーリーマガジン「HAS Magazine」のプロデュース、デザインスタジオ「HAS Couture」の運営を行う。