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2021.6.4
[ 後編 ]

ウジェーヌ・アジェと
パリの記憶

Atget’s
Paris
Atget’s Paris
後編
Atget’s
Paris

1920年のある日。
一通の手紙がフランスの文部省美術局に届く。

「拝啓 私は20年以上の間、私個人の考えから、パリのすべての古い通りの写真を撮り続けてまいりました。これらの芸術的で参考資料となる膨大なコレクションは、すでに完成しています。私は、すべての “古きパリ” を所有しているといえます。
70歳という高齢に近くになり、私には相続人も後継者もいませんので、これらの写真がその価値の分からぬ者の手に渡り、誰にも利用されることなく、最後には紛失しかねないこのコレクションの将来を思うと心配ですし、苦しくもあります。」

淡々とだが、どこか切実な想いが込められたその手紙は、ある1人の写真家から送られて来た。

その写真家の名前は、ウジェーヌ・アジェ。
失われつつある、古きパリの街並みを30年にわたり撮影した写真家だ。
後にその功績が認められ、近代写真の先駆者とまで称されるのだが、生前に大きな評価を受けることはなかった。

一体なぜ彼は、パリの街をただ一人撮り続けたのだろうか。
その疑問を紐解いてゆくと、そこには一人の写真家が歩んだ、数奇な人生の物語が流れていた。

アジェの眼差しの先にある、古きパリの記憶を辿りながら、一人の写真家の歩んだ物語を辿ってゆきたい。

ウジェーヌ・アジェ
Eugène Atget

1857年、フランスのボルドーの静かな町リブルヌ出身の写真家。
幼い頃に両親を亡くし、その後幾度かの人生の転機を経て、34歳からフランス・パリにて写真家として活動を始める。その後、1927年に70歳で亡くなるまでの人生を通して、時代の移り変わりの中で消えつつある古いパリの街並みを撮影し、8000枚にも及ぶ写真を残した。
生前に大きな評価を得ることはなかったが、死後、様々な人々の尽力によって再評価を受け、現在では「近代写真の父」とまで称される写真家となる。

後編
残された記憶を巡って
Remaining
Memory
Remaining
Memory
ヴェルサイユ宮殿、庭園 1901年

運命の出会い

古きパリを写真に残すこと。
そう決意をした40歳の頃から、30年近くもの歳月が過ぎていた。
青年時代に大海原を旅した過去は、遠い記憶の彼方へと過ぎ去りつつあった。
パリの街では、アジェは「アジェおやじ」、「お人よしのアジェ」と呼ばれていた。

表現者ではなく、職人としての写真家を志したアジェは、彼が望んだにせよ、望まなかったにせよ、写真家として目立った名声を得ることもなく、一介の街の写真家として、その生涯を終えようとしていたのだった。

シャトネイ、古びた家 1925-1927年

だがその暮らしは、決して悲観的なものではなく、派手ではなかったが、慎ましやかに幸せに暮らしていたようにも感じられる。
役者時代に出会った、同じく役者であった妻・ヴァランティーヌとパリでの日々を穏やかに楽しみながら。

そんなアジェに、突如一つの運命の出会いが訪れることになる。
1925年、アジェ68歳のある日のことである。アジェがいつも通り自身のスタジオで作業をしていた時、ドアをノックする音が聞こえた。

用心深く、そのドアを開けて見ると、一人の20代の若い見慣れない女性が立っていたのだ。

ルーアンの中庭 1915年

彼女の名前は、ベレニス・アボット。
特徴的なショートカットと、大きな瞳が印象的な女性だった。
アメリカから遠路はるばる、芸術を学ぶためにヨーロッパにやって来たという。
当初は、彫刻を学んでいたが、徐々に写真表現に興味を持つようになり、マン・レイという作家のもとで助手をしながら写真を学び始めていた。
マン・レイは、パリを拠点に写真表現を軸に様々な作品を発表していた美術家であり、当時の新しい芸術の潮流であったシュルレアリスムを牽引していたアーティストの一人であった。

アボットは、後に1930年代のニューヨークを写真で撮り、アメリカを代表する写真家の一人となるのだが、当時は全くの無名。
助手をしていたマン・レイのスタジオで、たまたまアジェの写真を見せられて、大きく感銘を受けた彼女は、アジェに会いたい一心で、彼のもとを訪れたのだった。

訪れた当初は無口であったアジェだが、何度か訪ねていくうちに親しくなり、妻のヴァランティーヌも交えて、三人で食事をすることもあったという。
とても穏やかな時間だったのであろう。

アジェとヴァランティーヌの間には、かつて一人の息子がいた。
だが、悲しいことに1914年から始まった第一次世界大戦に出兵し、帰らぬ人となっていたのだ。
だからこそ二人にとって、きっとアボットは娘のような存在だったのかもしれない。

そして、この出会いは後に、アジェの写真家としての運命を大きく変えることになるのであった。

古井戸、小道、ド・ラ・ガール通り、シャティロン 1922年

最後の写真

アボットがアジェのもとを訪れた二年後のこと、アボットは独立し、パリにスタジオを構えることになる。

当時のアジェは、1年前に最愛の妻を亡くし、途方に暮れていたという。
食欲もなくし、ほとんど外出することもなくなり、撮影する気力も失っていたのだ。
そんなアジェに対し、アボットは、アジェのもとを訪れ、どうしても自分のスタジオでポートレイトを撮りたいと説得を続けたのであった。

そこでどんな会話が交わされたのかは知る由もないが、アボットからの願いであれば仕方がないと、きっとアジェはそう思ったのではないだろうか。

パンテオンとヴァレット通りの一角 1925年3月

そして、その申し出を受け入れたアジェは、数日後に立派なコートに身を包んで、アボットのスタジオを訪れる。

その姿は、アボットにとって大きな驚きであった。
なぜなら、これまで継ぎの当たった洋服やコートを着たアジェしか見たことがなかったからである。

用意された舞台に、持ち前の役者魂に火が付いたのかもしれない。
だがそれ以上に、その行動の背景にあったのは、最愛の娘の晴れ姿を見送る父親のような気持ちであったのではないだろうか。
それはきっと、どこか不器用な印象を受ける、アジェなりのアボットへの精一杯の愛情表現だと。

こうしたエピソードに耳を傾けてみると、二人はとても温かな関係で結ばれていたように感じられる。

そして、その撮影に刺激を受けたアジェは、気力を取り戻し、再びカメラを手にし、撮影を再開し始めたという。
この時アジェは、70歳という年齢を迎えようとしていた。

ウジェーヌ・アジェ 1927年(ベレニス・アボット撮影)

繋がれゆく記憶

アジェのポートレイトを撮り終えた数日後、アボットは写真を抱え、アジェのアパートへ向かっていた。

何より尊敬するアジェのポートレートである。
独立してすぐのその撮影は、アボットにとって、きっと生涯忘れられない瞬間として記憶に残ったことであろう。
だからこそ、その足取りは、喜び勇むものがあったのではないだろうか。

そして、アパートに到着したアボットは、いつも通りアパートの階段を登り、
アジェの住む部屋のドアを開けようとしていた。
きっとアジェが撮影したポートレイトを見て、頑固そうな顔を少しはにかませながら、喜んでくれることを想像しながら。

ソー、絵のような一隅 1922年

しかし、そんな想いを膨らませながら、アボットがアパートのドアの開けた時、その視線の先にアジェの姿はなかったのだ。

アボットがポートレイトを撮影したわずか数日後、一時は気力を取り戻したに見えたアジェであったが、一人静かにこの世を去っていたのだ。
最後の舞台で見せた、自身の晴れ姿をこの眼で見ることもなく。
1927年8月4日のことであった。

常に華やかな時代から距離を置きながら生きたアジェらしい、とても静かな最期であった。
偉大な写真家としてではなく、一人の街の写真職人として、その生涯を閉じたのであった。

彼が30年もの時間をかけて紡いだ、膨大な「古きパリ」の記憶を残して。
アジェが手紙でその想い綴ったように、その記憶の行方は、最後まで心残りであったであろう。

オルガン・グラインダー 1898–99

だが、アジェの残した記憶は、決して消えることはなかったのだ。
そう彼の最期の姿を撮影したアボットの手によって、その記憶は繋がれていくことになる。

アジェの死を知ったアボットは、同じくアジェの写真に魅了されていた映画作家・画商の卵であったアメリカ出身のジュリアン・レヴィと共に、コレクションの散逸を防ぐために、アジェの原板を購入するために奔走する。

そして、近代写真の先駆者とも称されるニューヨークの写真家 アルフレッド・スティーグリッツの協力も得て、アジェの写真集の出版を行うなど、アジェの再評価のため尽力を尽くしたのであった。

最終的に、二人の想いは結実し、1968年にそれらのコレクションは、MoMA・ニューヨーク近代美術館に収蔵されることになる。
そこから時を経て、ニューヨーク近代美術館で回顧展が開催されたことが大きなきっかけとなり、アジェの名声はついに「近代写真の父」とまで呼ばれるようになったのであった。

もし、アボットとの出会いがなければ、今私たちが目にしているアジェの写真は、記憶の彼方に消え去っていたのかもしれない。
まさに運命に導かれるようにして紡がれた出会いが、アジェの記憶に永遠の命を吹き込んだのだ。

ラブルヴォワ通り 1925年

永遠の記憶を紡ぐ

時代の流れに合わせることなく、一人黙々と「古きパリ」の写真を撮り続けたアジェ。その姿を想い、孤高の写真家として語られることも多い。

だが、アジェとアボットの関係を紐解いてゆくと、また違ったアジェの人柄が見えて来る気がするのだ。
それは、アボットは、なぜアジェの再評価に尽力したのかということ。

もちろんアジェの写真への感性が素晴らしかったのは言うまでもない。
それこそが、アジェとアボットの二人を結び付ける大きなきっかけになった。

しかし、アジェの死後、アボットがアジェの再評価のために奔走し続けることが出来たのは、ただひとえにアジェの芸術的感性への想いだけでなく、彼がアボットに注いだ家族のような愛情があったからではないだろうか。

絵のような入口、シャティロン 1921-1922年

自身の創作活動を行いながら、無名の、しかも既にこの世を去った一人の写真家の再評価のために、自らの時間や資金を使い奔走することなど、並大抵の想いで出来ることではない。

きっとアボットの心の中にはいつも、若き日に出会ったアジェの心優しい姿があったのではないだろうか。
アジェにとって最期のポートレイトとなった、アボットとのエピソードが示すように。

シャラントン、古い水車小屋 1915年

役者を目指し、表舞台での活躍を目指していたアジェ。
しかし、彼の才能は、図らずとも舞台を降り、表現者であることを捨て、
時代の傍観者のような立場で、一歩引いた眼差しで世界を眺めるようになった時、はじめて彼の中に芽生えたのだった。
その時代の記憶をありのままに、そして美しく写真の中に残すという特異な才能を。

それは、挫折を重ねたアジェだからこそ、辿りついた境地だったのかもしれない。
不思議なことに表現への自我を捨てた時、時代を越える表現力を手にすることが出来たのだ。

サン=クルー宮殿 1904年

アジェの写真を眺めていると、ある小説家が紡いだ物語の中で描かれた、ひとつの情景を思い出す。

それは、アジェと同じ時代、ベル・エポックのパリを生きた小説家 マルセル・プルーストによる長編小説「失われた時を求めて」の中で描かれたもの。
語り手である主人公がマドレーヌを紅茶に浸したときに、その香りによって、失われた過去の記憶が一瞬にして蘇るという情景だ。

バレンヴィリエ、村の入口 1925年6月

アジェによって、永遠の命を吹き込まれた写真もまた、マドレーヌの香りが記憶を呼び起こすように、見る人々に時を越え、ある失われた記憶を呼び起こすのだ。
アジェの眼差しの先にあった、時代からこぼれ落ちてしまった、今はなきすべての「古きパリ」の記憶を。

アジェが手紙に綴った、その想いは時を越え、果たされたのであった。
彼の一途なまでの情熱と運命の出会い、そしてアボットへの温かな愛情によって。

アジェの紡いだ写真に流れる物語を紐解いてゆくと、不器用にも真っ直ぐに生きた、一人の男の物語が流れていた。
きっと今日もどこかで誰かが、彼の紡いだ写真によって、遠い記憶の彼方に誘われてゆくのだろう。

彼の眼差しの先にあった、古きパリの記憶の中に。(完)

Reference :

  • 「アジェのパリ」
    著者:
    大島洋
    出版:
    みすず書房
  • 「ウジェーヌ・アジェ回顧」
    企画・監修:
    東京都写真美術館
    出版:
    淡交社
  • 「ウジェーヌ・アジェ写真集」
    編著:
    ジョン・シャーカフスキー
    翻訳:
    原信田実
    出版:
    岩波書店
  • 「写真幻想」
    著作:
    ピエール・マッコルラン
    翻訳:
    昼間賢
    出版:
    平凡社
Category :
  • text :
    HAS
    HASは、多様な美しい物語を通して「物語のある暮らしを提案する」ライフストーリーブランド。ライフストーリーマガジン「HAS Magazine」のプロデュース、デザインスタジオ「HAS Couture」の運営を行う。
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