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ふと昔懐かしい友を想い出す時。 心の片隅に残された、かつての記憶が穏やかに灯されてゆきます。 この音楽は、そんな懐かしい友と巡り会う時間を思いおこしてくれる一曲です。
「The Sea & the Rhythm」という曲名と同じ、アルバムに収録された一曲。 この曲は、アメリカ・サウスカロライナ州出身のシンガーソングライター Iron & Wine アイアン・アンド・ワインによって紡がれました。
歩み続ける日々から少し立ち止まり、過ぎ去りし時を想う時間。 そんな穏やかな郷愁に寄り添う美しい音楽です。
その名前は、自身が映画を撮影している際に、偶然雑貨店で見つけたサプリメント「Beef Iron & Wine」から名付けたという。
どこか懐かしい穏やかな歌声を特徴とする音楽家である。
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優しい日差しに包まれた昼下がりのひと時。 この音楽は、そんな午後の穏やかな陽だまりを描くように紡がれた一曲です。
この歌の主は、アメリカ・オレゴン州の小さな町コキール出身の女性シンガーソングライターのLaura Gibson ローラ・ギブソン。
「If You Come To Greet Me」と名付けられたアルバムに収録されています。
穏やかな陽だまりが心をゆっくりとほどいてゆくように、聴く人の心を穏やかに灯してくれる音楽です。
ニューヨークとオレゴンを拠点に、四大陸でのツアーを行うなど世界各地で音楽活動を行っている。 伝統的な民族音楽と実験的な精神の両方を大切にしながら領域にとらわれない幅広い音楽制作を行っている。
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1917年第1詩集『月に吠える』を刊行し、詩壇における地位を確立。1925年上京し、東京に定住。
大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。
詩作のみならずアフォリズム、詩論、古典詩歌論、エッセイ、文明評論、小説など多方面で活躍し、詩人批評家の先駆者となった。
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野をひそひそとあゆんでゆく羊の群よ、
やさしげに湖上の夕月を眺めて
嘆息をもらすのは、
なんといふ瞑合(みょうごう)をわたしの心にもつてくるだろう。
紫の角を持つた羊のむれ、
跳ねよ、跳ねよ、
夕月はめぐみをこぼす……
わたし達すてられた魂のうへに。
早稲田大学第三高等予科を経て、1907年9月、早稲田大学文学学術院英文科に入学。この頃より詩の発表を始める。
1916年にライオン歯磨本舗に就職。以後、生涯をサラリーマンと詩人の二重生活に捧げた。
生涯に書かれた詩作品は2400近くにのぼる。作品の発表を盛んに行っていたものの、生前に詩集が発刊されることはなかった。
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澄み渡る空気と沈黙に包まれた静かな夜のひと時。 この音楽は、そんな静謐な時の中で、まるで水面に一滴の水が落とされるように紡がれたピアノ曲です。
「The Malady of Elegance」と名付けられたアルバムに収録された一曲。 この曲は、アメリカ・ペンシルベニア州出身の音楽家 キース・ケニフによるプロジェクト Goldmundの楽曲として紡がれました。
沈黙に捧げられるように静か紡がれるピアノの響きが静寂の中にある美しさを私たちに教えてくれます。
彼の音楽表現は多岐に渡り、表現するジャンル毎に、Helios/Mint Julep/Keith Kenniffといった多様な名義を使い分け、様々作品を発表し続けている。
Goldmundという名義では、主にピアノを用い、空間を静かに響かせるような美しい音楽を制作している。
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木々の隙間から微かに零れる光が朝靄を静かに染める夜明け。
この音楽は、そんな美しい朝のひと時をすくい上げるように紡がれた一曲です。
この曲は、アメリカ・ポートランド出身の女性アーティスト Grouperの5作目となるアルバム「Dragging a Dead Deer up a Hill」の中に収録されています。
淡い光に包まれる、儚く美しい朝のひと時のような時間を私たちに届けてくれます。
空間を満たすサウンドスケープとシンプルなピアノの音色を背景に、ささやくような歌声を重ね合わせ、幻想的な世界観を生み出している。
また音楽のみならず、自らのアルバムジャケットのアートワークも手掛けるなど、音楽とアートの垣根を越えた表現を行う。
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夕影しづかに番の白鷺下り、
槇の葉枯れたる樹下の隠沼にて、
あこがれ歌ふよ。
『その昔、よろこび、そは朝明、光の揺籃に星と眠り、
悲しみ、汝こそとこしへ此処ここに朽ちて、
我が喰み啣める泥土と融とけ沈みぬ。』
愛の羽寄添ひ、青瞳うるむ見れば、
築地の草床、涙を我も垂れつ。
仰げば、夕空さびしき星めざめて、
しぬびの光よ、彩なき夢ゆめの如く、
ほそ糸ほのかに水底に鎖ひける。
哀歓かたみの輪廻は猶も堪へめ、
泥土に似る身ぞ。
ああさは我が隠沼、
かなしみ喰み去る鳥さへえこそ来めや。
啄木は雅号で、本名は石川 一(いしかわ はじめ)。
旧制盛岡中学校中退後、明治35(1902)年与謝野鉄幹の知遇を得て、『明星』に寄稿する浪漫主義詩人として頭角を現す。19歳の時に、処女作となる詩集『あこがれ』を刊行。
同時期に盛岡に帰郷し結婚するも、生活難のため母校の代用教員となる。
明治41(1908)年に上京、創作に没頭し小説を発表するが認められず、困窮の生活を送り、翌年に東京朝日新聞に就職。
明治43(1910)年に『一握の砂』を刊行、歌人としての地位を確立する。
また、同年に起きた幸徳事件(大逆事件)をきっかけに社会主義への関心を深め、文学評論も執筆したが、26歳の時に結核を患い帰らぬ人となる。
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モンゴル・ウランバートル出身、現在はドイツ・ミュンヘンを拠点に活動するジャズシンガー・エンジ(Enji)による一曲。
この曲が収録されたアルバム『Ursugal』には、彼女の父への想いが込められています。
その想いとは、父親への愛情。
彼女の家族は、「愛してる」という言葉を互いに口にすることは、ほとんどなかったと語っています。
しかし、それは決して愛がないのではなく、その言葉を口にする気恥ずかしさがあったのだと言います。
その感覚は、私たち日本人の家族への想いと、どこか似ているようにも感じます。
アルバム『Ursugal』は、そんな彼女の内面にある深い愛情を表現することを大切にしながら作られました。
そして、この「An Untitled Hill(名もなき丘)」は、このアルバムの最後に収められた一曲。
この曲には、彼女の記憶の中にある、かつて父と共に歩いた故郷のある丘の風景が流れているのかもしれません。
それはきっと他の誰かにとっては何でもない、しかし彼女にとっては特別な、名もない丘の風景なのだと思います。
歌を愛する両親のもと、モンゴルの伝統的な移動式住居ゲルを住まいとし、子供時代を過ごす。
もともと歌手ではなく、音楽教育に関心があった彼女のキャリアは、小学校の音楽教師から始まる。
しかし、後に彼女が暮らす地域で開催された、ドイツの文化機関「ゲーテ・インスティトゥート」の資金援助によるジャズ教育プロジェクトへの参加がきっかけとなり、自分の中にある歌への想いに気付き、教育者から歌手への道を歩み始める。
その後、ドイツ・ミュンヘンに移住し、音楽・舞台芸術大学のジャズヴォーカル修士課程を卒業し、本格的な歌手として活動を開始する。
両親から受け継いだモンゴル遊牧民族の民謡や舞踊、伝統的な歌唱法を下地に西洋の音楽表現を融合させた、独自のスタイルを持つ、ジャズシンガーである。
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終わりの見えない悲しみ。明けるともしれない夜の闇。
この音楽は、そんな暗闇に満ちた世界の先にある、確かな光を伝えるようなピアノ曲です。
「Between The Lines」というアルバムの中に収められた一曲。
この曲は、ベルギー出身のピアニスト・作曲家であるジャン・フィリップ・コラール・ネヴェン(Jean-Philippe Collard-Neven)によって紡がれました。
どこか憂いを湛えたピアノのメロディーの中に感じられる希望の光のような美しさ。
それは深い悲しみの先にある、確かな喜びを私たちに教えてくれているのかもしれません。
彼の手掛ける音楽は、クラシック、ジャズ、フレンチ・シャンソン、現代音楽など多岐に渡る。多様な音楽の表現を取り入れながら、ジャンルの枠組みを超えた幅広い活動を行なっている。
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ブレイクは、ビジョンと呼ばれる幻視体験に基づいた特異な見解から同時代の人々からは狂人扱いされており、生前は詩人としては認められることはなく、一介の彫版師として生活した。
その後の批評家や読者からは、その表現力と創造性、そして作品内の哲学的・神秘主 義的な底流が高く評価されるようになり、ワーズ・ワース、コール・リッジらとともにイギリス・ロマン派の詩人の重要人物として知られている。
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そのむかし、わたしの心にさわいだ野獣の嵐が、
初夏の日にひややかによみがへつてきた。
すべての空想のあたらしい核をもとめようとして南洋のながい髪をたれた女鳥のやうに、いたましいほどに狂ひみだれたそのときの一途の心がいまもまた、このおだやかな遊惰の日に法服をきた昔の知り人のやうにやつてきた。
なんといふあてもない寂しさだらう。
白磁の皿にもられたこのみのやうに人を魅する冷たい哀愁がながれでる。
わたしはまことに美の遊行者であつた。
苗床のなかにめぐむ憂ひの芽、望みの芽、
わたしのゆくみちには常にかなしい雨がふる。
早稲田大学第三高等予科を経て、1907年9月、早稲田大学文学学術院英文科に入学。この頃より詩の発表を始める。
1916年にライオン歯磨本舗に就職。以後、生涯をサラリーマンと詩人の二重生活に捧げた。
生涯に書かれた詩作品は2400近くにのぼる。作品の発表を盛んに行っていたものの、生前に詩集が発刊されることはなかった。
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