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2023.1.20
[ 後編 ]

神戸・北野町と幾つもの
夢を追って

Dreams with
Kitano
Dream with Kitano
後編
Dreams with
Kitano

海と山に囲まれた港町・神戸。
街の背には、六甲の山々が並び立ち、港からは、穏やかな瀬戸内の海風が吹き込んでくる。


古くから港町として栄えたこの土地は、様々な国々から多様な文化や人々を受け入れ、多くの人々がこの地に夢を描いた。
そして、その歩みは、独自の文化を生み出し、神戸の街を国際都市として発展させてゆくことになる。

そんな神戸の街を訪ねてゆくと、あるひとつの町の姿に出会った。
それは、神戸の山手に位置する北野町。
街と海を見渡すように立つ風見鶏をシンボルに、幾つもの異人館とその間を縫うようにして伸びる坂道が独自の美しい景観を描く町だ。

そして、この町に流れる物語に耳を澄ましてゆくと、この場所には、世界でもここにしかない独自の多文化共生の暮らしが育まれていた。
それは、多様な文化や思想、人種が行き交う、今の時代を生きる私たちにとって、これからの未来を描いてゆくために、大切な手がかりとなる姿でもあった。

そんな北野町に根付く、独自の多文化共生の姿を辿ってゆくために、神戸、そして北野町に流れる多様な物語を紡いでゆきたい。

神戸・北野町
Kobe Kitano

北野町は、神戸の街の山手にある閑静な住宅地域。
神戸の開港と共に、この地に暮らし始めた外国人の旧宅が今なお街の中に点在し、様々な異人館とその間を縫うようにして伸びる坂道が独自の美しい風景を紡ぎ出している。
特に街と海を見渡すように立つ風見鶏をシンボルとしたエリアは、観光地としても名高く、毎年多くの観光客で賑わいを見せている。
路地を曲がり、小道をたどれば思いがけない風景との出会いがあり、異国の人々の暮らしの息づきと匂いを感じることが出来る、異国情緒漂うエリアである。

後編
ある異国人の夢
Dream of
Foreigner
Dream of
Foreigner

幸運な贈り物

異国人の素顔

江戸時代から明治への動乱の時代の移り変わりの真っ只中で、他の港に遅れること9年を経て、開港した神戸港。
そんな時代背景が偶然に生み出した「雑居地」。

それは図らずも暮らしを舞台にした国際交流という、独自の文化をもたらした。
そこに住む日本人にとっては、驚きとともに始まった「雑居地」という環境。
では時を同じくして、その場所に暮らし始めた異国人たちは、一体どんな想いを抱いていたのだろうか。

ある一人の異国人の夢の記憶を辿ってゆく前に、少し目線を変え、当時の神戸に暮らし始めた異国人たちの素顔を辿ってみたい。

もうひとつの幸運

開港の遅れが「雑居地」という新たな文化を育むきっかけとなっただけでなく、その遅れは、もうひとつの幸運をもたらした。
それは、この地に移り住む異国人たちの意識に、ある影響をもたらしたのだ。

長い鎖国から突如として外国への門戸を開くことになった日本。
その大きな変化は、それぞれの港に混乱をもたらした。
そのため開港したばかりの頃は、混乱に乗じてやってきた、金儲け目当ての悪徳商人たちとのトラブルが絶えなかったという。

しかし、年を重ねる中で、そうした商人は淘汰され、その多くは神戸の開港までに日本を立ち去ることになる。
さらに9年もの歳月が日本にやって来た異国人たちにとって、日本文化への理解を深める時間となった。

そうした背景から、この地に移り住んだ異国人の多くは、日本に対する理解と好意的な想いを抱く人々だったのだ。

神戸の人々の見事な順応性もさることながら、この場所に移り住んだ異国人たちの想いも、この地の「多文化共生」を育む大きな理由となったのだろう。

事実、多くの異国人たちが国籍や文化の垣根を越え、ひとえに神戸という街、時に日本という国を想い、それぞれの夢を描きながら様々なものを残していったのだ。
その多くは、今もなお様々な形で神戸の街の中で生き続けている。

そうして紡がれた幾つもの夢によって、神戸という街は多様な文化が響き合う、新たな景色を育んでゆくのである。
それは名を残した人だけでなく、多くの名も無い人々によって紡がれた夢。

そのすべての夢を言葉で紡いでゆくことは出来ないが、ある一人の男の物語を通して、当時の異国人たちが抱いていたであろう神戸への想いを紐解いてゆきたい。

一人の男の物語

遥か海を越え神戸へ

その男の名は、アレキサンダー・キャメロン・シム。
英国スコットランド出身の薬剤師であった。
彼は、1840年スコットランドのアバラーという内陸の静かな村に生まれる。
周囲を山々に囲まれた、美しい自然に包まれた穏やかな田舎の村であった。

1862年 22歳の時に、王立ロンドン病院に薬剤師として就職。
1866年には、英国を離れ、香港の海軍病院に勤務する。
そして、1970年 30歳になろうとする年に、遥か海の彼方にあったであろう日本の地にやってくるのである。

その後、数ヶ月、長崎の外国人居留地で過ごしたあと、開港したばかりの神戸に移り、かつて居留地にあった「レウェリン商会」で薬剤師として働き始めることになる。

それは長雨が続く、梅雨の時期。
神戸の開港から2年の月日が過ぎた、降り続く雨と青葉の香りが夏の始まりを知らせる、6月のある日のことであった。 

そうして様々な土地を巡りながら日本の地に辿り着いたシムは、一人の薬剤師という職業人の枠組みを越え、多様な文化を神戸の地にもたらしてゆくことになるのである。

紡がれたスポーツ文化

シムは、1870年9月23日に、神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ(KR&AC)という外国人会員によるスポーツクラブを設立する。
なんとその設立は、彼が神戸にやって来た、わずか3カ月後のことであったのだ。

クラブの設立をきっかけに、これまでの日本にはない様々なスポーツ競技が神戸で開催されるようになる。
レガッタというボート競技やラグビー、さらに日本で初めてのサッカーの試合を神戸で開催するなど、神戸に近代スポーツを根付かせる大きなきっかけを作り出したのだ。

来日後、わずか数ヶ月にしてスポーツクラブを設立するという、彼の行動力にはただただ驚かされる。
だがそれだけではなく、シムは、実業家としての才覚も発揮してゆくのである。

実業家としての歩み

来日から15年が経った1885年、シムが45歳の時である。
居留地の18番地に、自らの名を冠した「シム商会」という会社を設立する。
そして、自らの薬剤師としての経験を活かした薬品の輸入販売に加えて、ラムネの販売を手掛け始める。

なんと日本でラムネの販売がされたのは、これが初めて。
当時、日本ではコレラが流行していた。
その時に、東京毎日新聞が、「炭酸水(ラムネ)を飲むとコレラの予防になる」と書いたのである。

その報道をきっかけに、コレラ予防のために多くの人々がラムネを求めるようになり、爆発的に売上を伸ばしたのだ。
会社の所在地である、居留地の18番にちなんで「18番ラムネ」と愛称を付けられるほどの盛況ぶりだったというから驚きである。

スポーツ文化からラムネという新たな飲料文化まで、多様な文化を神戸のみならず、日本の地にもたらした、シムの功績は計り知れないだろう。
だがしかし、彼の残したものはそれだけにとどまることはなかったのだ。

無私の想い

シムは、スポーツを中心とした文化活動や実業家としての活動だけでなく、
ボランティア活動にも熱心に取り組んだのだった。

居留地内において、率先してボランティアでの消防団員である、義勇消防隊を結成。
自ら、その隊長を長年勤め上げたのである。
そして、隊長として、神戸のみならず、日本各地の災害救援にも奔走したというのだ。

実際に、日本各地で自然災害が発生した際には、自ら大金を寄付するだけでなく、義援金集めに奔走。
さらに、そうした金銭面でのサポートだけでなく、自ら被災地に赴いて、食料や衣料の配給までをも行ったのだ。

1891年、日本史上最大の内陸地震とも言われる、濃尾地震が岐阜県で発生した際には、義援金集めに奔走。現地にも駆けつけ、ボランティアを行ったという。    
さらに1896年、岩手県で発生した明治三陸地震によって、現地が大津波に襲われた際にも、義援金集めに奔走。
さらに神戸外国人居留地から集めた募金を携えて、船で釜石へ駆けつけたというのだ。

シムのそうした行動は、まさに今日本各地で行われている、災害ボランティアの元祖であり、走りとも言われている。
そうした彼の行動を辿ってゆくと、彼の中心にあったのは、国籍や人種に関係なく、ただただ多くの人々の幸せを願う、無私の想いであったことが手に取るように分かるような気がするのだ。

実際に、そんな彼の人柄を表す、ひとつのエピソードがある。
多様な活動を行い、目まぐるしい日々を送っていたであろう彼だが、ある欠かさぬ習慣を持っていたという。

夜には、いつも決まって現在の神戸・三宮駅の南に広がる都市公園、東遊園地に設置されていた火の見櫓ひのみやぐらに登り、街に火の手が上がっていないかを見届けていた。
そして、就寝時には必ず手元に消防服とヘルメット、手斧を置いていたというのだ。

このエピソードから、シムがいかに神戸という街を大切に想い、愛していたのかが伝わってくるような気がするのだ。

そうして彼は、スポーツクラブの設立、実業家としての成功、そして様々なボランティア活動を重ねながら、その半生を神戸の地で暮らし、多くのものを残していったのである。

残された想い

彼方への旅立ち

1870年に、シムが来日してから約30年の月日が過ぎた、1899年7月17日。
ついに神戸居留地が日本に返還される時がやってきた。

当初は、日本にとって不本意な不平等条約をきっかけとした開港であったが、多くの街を愛する異国人たちの尽力もあり、開港後はおおむね良好な関係の中で、居留地は育まれていった。

シムは、その神戸居留地返還に際し、病気の居留地会議・議長に代わって署名をする。
1870年の開港直後の来日から約30年間に渡り、神戸のために力を尽くした彼は、その半生を居留地の歴史と共に歩んだと言えるだろう。

だがしかし、神戸居留地の返還から、わずか一年後の1900年11月28日。
シムは、腸チフスという病によって、突然この世を去ることになるのである。

まるで神戸の返還を見届けるかのように、その生涯を静かに閉じたのであった。
享年60歳。その半生を遥か海の彼方の異国の地にささげた、一人の男の夢が幕を閉じたのであった。

彼の死後、多くの人が彼を悼み、シムがかつて登った火の見櫓のあった東遊園地には、記念碑が建っている。
そして、その亡骸は、修法ヶ原の神戸外国人墓に埋葬され、かつての仲間たちと一緒に眠っている。

そんな彼の眠る石碑には、ある文章が記されている。
「彼は男の中の男であった」と。
まさに神戸文化のひとつの大きな柱を作り上げた、シム。
彼を抜きにして、神戸の文化の発展は考えられないだろう。

物語から見える想い

もちろんこれは、アレキサンダー・キャメロン・シムという一人の男の物語である。
だが、彼がこうした活動を一人でなしえた訳では決してない。
その想いに賛同し、彼をサポートし、時に自ら率先し動いた、幾人もの語られることのない異国人がいたことは紛れもない事実であろう。

そんな彼の物語を辿ってゆくと、開港当時の神戸の地で暮らした異国人たちの姿が浮かび上がってくる気がするのだ。
国籍や文化という垣根を越え、神戸という街を愛し、大切に想った人々の姿が。

例えばそれは、産業の近代化や学校教育に尽力した人々の姿。
ファッション文化やパンやケーキなどの洋菓子の文化の普及に携わった人々の姿。
もっと些細な、決して目に見えないような文化の交流も、星の数ほどあったに違いない。
その多くは、決して歴史書には、残ることのない無名の人々の営みである。

そこには、多様な人々の交流と人間味溢れるドラマ、そして多くの人々の夢が流れていたのだろう。
そんな多様な物語が響き合い、神戸という土地は、開港と共に新たな歴史を刻み始めたのである。

返還への想い

多くの人々の夢が響き合い、辿り着いた返還の日。
その記念すべき日に、居留地会議を代表して当時のフランス領事であったフォサリュウ氏は、次のような式辞をのべた。

「30年前この地は正真正銘の砂浜でした。今日、私たちはその同じ場所を、美しい建物が立ち並び、倉庫という倉庫には商品が溢れた立派な町に変えて日本政府に返還します。この町こそ西洋諸国民の才能の真髄を示す実例であり、象徴であります。その旺盛な進取の気風、倦むこのない企業精神、忍耐、倹約、そして商業経験、これらが神戸の発展に大きく寄与したのです。居留地の歴史は、そのまま神戸の歴史を述べることになるでしょうし、神戸の歴史を抜きにしては居留地の歴史も語れません。」

そう語られた言葉には、国籍を越え、神戸という土地を愛した異国の人々の
誇りを感じ取ることが出来る。
まさに神戸という街は、日本人と多くの異国の人々が手を取り合い紡いだ夢によって育まれたのであった。

当初、不平等条約という名のもとに、不本意な思いから始まった開港。
しかし、そこに暮らす人々の人間同士の付き合いが、そうした垣根を越え、現在に残る素晴らしい街並みを作り上げることになったのだ。
「雑居地」という偶然によって生まれた土地。
そして神戸を愛した多くの人々の夢によって、「多文化共生」の土壌も大きく育まれていったのだろう。

だがしかし、そうした喜びは束の間の時に過ぎなかった。
そんな神戸という街を舞台にした国際交流は、国際政治の舞台においては身を結ぶことはなかったのだ。

残酷な現実と微かな光

返還から14年の月日が経った1914年。そして、さらに続く1939年。
日本は、二度に渡る世界大戦へと突入してゆくことになるのである。

その結末は、歴史が証明する通りである。
世界中で多くの人々の命が失われ、多くの人々が暮らした街並みもまた焦土となった。
それはまさに理想と現実の恐ろしいほどの大きな壁を示す、かつてないほど残酷な結末であった。

だがそうした深い悲しみの中にも微かな光は残されていた。
幸いにも、異国の人々と共に作り上げた神戸の街並みは、部分的な被災に留まったのである。
そのため神戸・北野町には終戦当初は、200棟近くの異人館が立ち並んでいたという。
その残された街並みは、戦争とともに消えかけた「多文化共生」の灯として大きな役割を果たしてゆくのである。

しかしながら、終戦から時を経た1950年代中頃。
こうした神戸独自の街並みに、ある大きな危機が訪れることになるのである。

( ■ 最終編「手紙が紡いだ記憶」に続く )

Reference :

  • 「神戸学」
    監修:
    崎山 昌廣
    編集:
    神戸新聞総合出版センター
  • 「居留地の街から―近代神戸の歴史探究」
    編集:
    神戸外国人居留地研究会
    出版:
    神戸新聞総合印刷
  • 「神戸っ子のこうべ考」
    編集:
    甲南大学総合科目神戸っ子のこうべ考
    出版:
    神戸新聞総合出版センター
  • 「居留地の窓から : 世界・アジアの中の近代神戸」
    著者:
    神戸外国人居留地研究会
  • 「北野『雑居地』ものがたり」
    発行:
    こうべ北野町山本通伝統的建造物保存会
Category :
  • text / photo :
    HAS
    暮らしに美しい物語を。HASは、多様な美しい物語を通して、「物語のある暮らしを提案する」ライフストーリーブランドです。
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