水汲み
Water
Water

Water
毎月一編の美しい詩をご紹介する「暮らしの詩集」。
今回ご紹介するのは、「水汲み」という詩。
この詩とは、ふとした偶然に出会いました。
そして、作者が誰とも知らず、この詩を読み進めていった時、ひとつひとつの言葉の瑞々しさと美しさに深い驚きを感じました。
このような詩を紡ぐ詩人とは、一体何者なのだろうか。
そう強く感じさせるほどに。
それから、その作者を辿っていた時、そこに刻まれていたのは、歴史に名を残す著名な詩人ではなく、ある無名の若き青年の名前でした。
彼の名は、田辺利宏。
この詩が生まれたのは、1939年から1941年にかけての頃。
当時、彼が20代半ばであった時のことです。
その時代は、日本が第二次世界大戦へと突入してゆく時代でもありました。
多くの未来ある若者が戦地へと駆り出され、その命が儚くも消えてゆきました。
そして彼もまた、その深い悲しみの連鎖の中に巻き込まれていったのです。
享年26歳。
派兵された中国の地で、祖国の地をもう一度踏むこともなく。
彼の灯火は、静かに消えてゆきました。
もし彼が生き長らえていたとしたら、その瑞々しい感性でどれほど素晴らしい作品を生み出していたのか。
そう感じざるをえません。
一人の無名の青年が残した美しい詩。
その深い悲しみに包まれた境遇と彼のあまりに瑞々しい感性との対比が、まるで深い暗闇に差し込む光のように、この詩の美しさを悲しくも際立たせています。
そんな短い彼の生涯を想いながら、お読み頂けますと幸いです。
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はだしの少女は
髪に紅い野薔薇を刺し
夕日の坂を降りてくる。
石だたみの上に
少女の足は白くやわらかい。
夕餉の水を汲みに
彼女は城外の流れまでゆくのだ。
しずかな光のきらめく水をすくって
彼女はしばらく地平線の入日に見入る。
果てしない緑の彼方に
彼女の幸福が消えてゆくように思う。
おおきな赤い大陸の太陽は
今日も五月の美しさを彼女に教えた。
楊柳の小枝に野鳩が鳴いている。
日が落ちても彼女はもう悲しまない
太陽は明日を約束してわかれたからだ。
少女はしっかりと足を踏んで
夕ぐれに忙しい城外の町へ
美しい水を湛えてかえってゆくのだ。
Info
田辺利宏
1915年5月19日生まれ。岡山県出身。
30年4月、上京して神田の帝国書院に勤めながら、法政大学商業学校に通う。
34年4月、商業学校を卒業し、日本大学予科文科に入学。
36年3月、同大学文学部文学科英文科進学、39年卒業。
39年9月、広島県福山市の増川高等女学校に勤め、英語と国語を教える。
39年12月、松江に入営。後中国各地を転戦。
41年8月24日、中国江蘇省北部にて戦死。享年26歳。
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Reference :
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「きけ わだつみのこえ - 日本戦没学生の手記」
- 編集:
- 日本戦没学生記念会
- 出版:
- 岩波文庫
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